銀月ストリングス 序幕閑話・月堕つ夜

輪郭は朧気に、しかし、はっきりと其の容貌が分かる彼方の銀月。真夜中に於いては唯一の光彩である其れは、荒涼とした僻地を冷たく照らす。光は寂寥とし、どこか心持たない。しかし、この場所に於いてはどうも当てはまらない。此処には過去に人々が住んでいたという残骸しかない故、寂寥とした光よりも視界に入る残骸の方に阻喪せざるおえない。
所謂〝忘却の都市〟。最初の犠牲になったのはこの場所。そして、全ての発端もこの場所からであった。
周りのとは幾分大きい街の中心に位置する土塊の上、二人の若者が座している。
二人は天を見上げ、透き通る程にクリアな暗黒色に浮かぶ、星々、そして、真球を形作る銀月を見つめていた。二人は一切の口を開かず。しかし、銀月が真南の一番高い空に上がった時、ぼそぼそと若者の一人が口を開いた。
「王、そろそろ戻ろうか。流石に夜は冷える」
王と呼ぶ割には非常にぶっきらぼうな物言いをする若者は、頭をすっぽりと覆う褪せた褐色の外套を纏った万能の名を冠した代行者、つまりは〝彼〟である。
「王だと? いい加減堅苦しい其の言い方は止めぬか。昔みたいにギーゼルと呼べばよかろう」
〝彼〟の隣に座るは仄かに銀色に光る外套を纏う〝赤き御剣〟という二つ名を持つ賢君・ギーゼルベルト。彼は王という身でありながら代行者の力をもつ類稀な存在であった。
王と、いち代行者の身分というのは天と地の差がある。しかし、他の代行者、並びに市井の者とは異なり、二人の関係は対等であった。血筋や身分に縛られぬ其の関係は友と呼ぶに値すべきものであろう。
「でも、他の家臣が居た時にぼろが出てきては、私としては非常に困る。後見の三賢者に聞かれてしまったら袋叩きにあってしまうよ」
「ははっ、そうなったら必死になって止めてやる。いや、そうだな……。寧ろ三賢者を袋叩きにしても面白そうだ」
冗談めかして言った軽口、しかし、口調は暗く重く、まるで隠していた本心をつい零してしまった、というような具合であった。
「……そんなに嫌いなのか? 三賢者が」
「……奴らは一線を退いたとはいえ尚も強大な力を残している。だが、其れが悪いとは思わん。私に力を貸してくれなくとも、民のために尽力してもらえれば良い。しかし、貶める結果のみに働いては、な」
仰ぐ首を横に向け、〝彼〟は疑問を口にする。
「どういう事だ……?」
「〝織りし知識の夜〟という議会の存在は知ってるか?」
「いいや」
数瞬、間を置き、ギーゼルベルトは話し始めた。
「そうか……。〝曇りなき真実〟というのはお前も知っている通りの内政機関だ。国王は其の中で承認された議題に最終的な判断を下す。しかし、其れらが最初から全て仕組まれていたものだったらどうする? 〝織りし知識の夜〟で承認された議題のみしか〝曇りなき真実〟で通らないとしたら……」
「最悪だ。〝曇りなき真実〟の意味がまるで無くなってしまう」
きっぱりと、〝彼〟は切って落とす。そんな言葉にギーゼルベルトは、其の通りだ、と言うが如く仄かな苦笑いでもって返答する。
「だな。多分、親父の時代……。いや、もっと昔から続いていたんだろうな。若手議員の不正を暴いた時に、謀らずとも其の存在を知った。其れが一年前。そして、事が動いたのが二日前だ。私の直々の命で其処に内偵をさせていた私の側近が殺された。セシル=フレイル、という名はお前も聞いた事あるだろう? 灼欄弩を操る稀代の代行者の一人だ」
抑揚をつけずに一息で話す。やがて、ギーゼルベルトの言葉が深い中空の暗黒色に吸い込まれたそんな時。
「……セシルが?」
そう、〝彼〟は呟いた。驚きの表情は浮かばない、しかし、放った声にはありありと其れが分かる程に震えていた。
「うむ」
セシル=フレイル。彼はギーゼルベルトの側近中の側近、〝彼〟も面識がある人物だ。
代行者としても相当の腕の持ち主である。灼欄弩と呼ばれる、焔を具象し其れを幾千の矢とする魔術を使う稀代の代行者であった。こと、投擲魔術の部類に於いては他の追随を許さない。それは〝彼〟も例外ではなかった。確かに、総合的に見てみれば〝彼〟の方が勝っている。万能となった〝彼〟には無限とも言える魔力が備わっている。手合わせを行った訳ではないが長期戦の様相を呈すれば〝彼〟に軍配が挙がるであろう。しかし、極限にまで研磨された投擲魔術という点のみを考えれば、〝彼〟をもってしても、未だ到達しえない高みであった。そして、其のセシルが死亡したという事。しかし、驚く理由は他にもあった。実は、一週間前セシルと食事をしていたのである。其処で聞かされたのは、とある命で某所に潜入しているという話。其の時の快活に笑う青年の容貌が未だ、瞼の裏側に焼きついていた。
そう、セシル=フレイルが亡くなったという事実が信じられなかった。
「正しくは瀕死の状態で運ばれたのだが、私に言葉を残し程なく息絶えた。……なぁ、セシルは最期に何て言ったと思う?」
「……………………」
無言で首を横に振り、〝彼〟は回答を急かす。
「〝殻棄ての民〟は魔術によって生み出された存在だそうだ。そして、其れを統べている者たちが」
ギーゼルベルトが続きを話す前、〝彼〟は確信めいた単語を口にする。
「三賢者……という事か」
「……うむ」
静寂が闇に包まれる。互いに無言を貫き、そして、銀月が仄かに傾きを見せた頃。
「気をつけろ」
ギーゼルベルトはそう呟き、腰を上げては立ち上がる。
「三賢者の目的が何かは知らん。だがな。よからぬ事を企ててる事は確かだろう?」
腰付近に付着した土を手で払い、ローブを翻す。
「万能の名を冠した以上、何かしらの接触はあるはずだろうしな。気をつけておけ」
「そうだな」
眠たげな眼、しかし、抱く殺気故に〝彼〟は凍てつくほどに鋭くなった眼で、銀月に照らされた廃墟の物陰を睨む。
「……っ!」
「何体……いるんだろうな?」
ギーゼルベルトは〝彼〟の見る方向を見定める事無く、ローブ内に潜めていた細身の剣を抜き、構える。
揺らぐ蜃気楼が如く存在が、音も無く、周囲の景色を歪め、二人を囲む。ぼんやりと歪む景色の数はざっと見ると、百以上。
「何時の間に……」
「今さっきだ、ギーゼル。君が立ち上がったとき周囲の空気が一気に変わった。どす黒くて、血なまぐさいそんな奴に」
現れた其れは、〝殻棄ての民〟と呼ばれる、代行者に仇なす存在。人々の魂を喰らい己が生命・力に還元する、魔物という枠には到底収まりきれない、凶悪な存在であった。
すっ、と音もなく〝彼〟は立ち上がり、ギーゼルベルトの横に並ぶ。
「……どうしようか?」
ギーゼルベルトは〝彼〟の眼を見る事無く、考えを述べる。
「正面突破し、撤退。……ってところだな」
〝彼〟は褐色のローブの中から、細い棒切れを取り出した。材質は金属。一本の火箸の様に見受けられる其れは、楽隊の演奏の指揮に使うタクトであった。
「準備は?」
顔を見る事無く、ギーゼルベルトに問う。
「既にできている!」
ギーゼルベルトが声を荒げた其の瞬間。〝彼〟はタクトを静かに振り上げる。其れは非常に美麗な動作であった。まるで、今から楽曲が始まる合図を楽団に示すよう、静かで、流れるようでいて、しかし、ぴんと張り詰めた空気を感じさせるそんな動作。
歪む景色はじりじりと迫り距離を縮めてくる。生命の欠片を感じさせられない現象と化した不可思議は、ギーゼルベルトが剣を強く握る動作を皮切りに、一斉に各々の方法で二人の殺害を試みた。一つは拳を上げ、もう一つは口を鰐のように牙をちらつかせて。
しかし、〝彼〟にはそんな様子は目に入っていない。
いや、寧ろ、一瞥する必要さえ無い。
〝彼〟は万能の名を冠した代行者。無限の魔力を恣に操る存在。そんな〝彼〟には雑作もなかった。呼吸をするが如く、一つの動作で三つの魔術を同時に発動させる事など。
ひゅん、と乾いた音が木霊する。
タクトが振り下ろされた瞬間、ストリングスは美麗に発動する。
一つ、疾風が如く魔力の刃。
一つ、流星が如く魔力の槍。
一つ、稲妻が如く魔力の弩。
二人の前方に屹立していた〝殻棄ての民〟の群れは、切り刻まれ、貫かれ、弾き飛ばされ、魔力で拵えられた存在が滝の瀑布に飲み込まれるよう、一瞬のうちで希薄な其の存在が消えて無くなる。取り囲んでいた歪む景色、二人の前方のみには何も無い。クリアになった景色だけが、ぽっかりと広がっていた。二人は一足でもって歪んだ景色から抜け出した。〝殻棄ての民〟が反応するのもままならない程に一瞬。
「追撃を――っ!」
〝彼〟がギーゼルベルトに声をかけた瞬間。
「……ふん、言われるまでもない」
との言葉と共に、剣が鞘に収められた音が静かに響く。其の時にはあらかた終わっていた。横一文字に切り開いた空気の断層が、迫りくる〝殻棄ての民〟の群れを襲う。其の切断面は赤く、灼熱の紅炎を思わせるほどに赤く。其れは、ギーゼルベルトが振り向きざまに放った一撃と共に、炎の魔術を上乗せした彼独自の業による。歪んだ景色が一瞬にして燃え上がる。煌々と夜空に広がる暗黒色を侵食するよう、炎は天を焦がす勢いで〝殻棄ての民〟を蒸発させた。故に〝紅き御剣〟。ギーゼルベルトの剣の痕に残るは炎の残滓。命、否、魂すらも燃やし尽くす業火を発現させるが其の名の所以であった。

数分ほど疾駆し残りの〝殻棄ての民〟を振り切った。
此処は廃墟の欠片もなく、そして、何も無い。唯一有るのは広大な砂の海だけである。
脚を止め、ギーゼルベルトは崩れるように跪いた。
手を貸そうとした〝彼〟だったが、横から見えてしまったギーゼルベルトの表情に逡巡し、そして手を引っ込め、彼の隣に腰を下ろした。
「ははっ、最早形振りかまわん、という事か……」
ギーゼルベルトはぽつりと呟いた。其れは隣に座った〝彼〟にも聞こえない程に静かなもの。ギリッ、と歯軋りを立て、半身が砂に埋もれた細身の剣を握りしめる。
頬を伝う雫が砂に落ちる。砂は雫を飲み込み、すぐさま、乾いていく。
ギーゼルベルトは……此処の場所に来る事は家臣の誰にも告げていない。だが来る前に、腰を曲げ杖を突いて歩く老人、しかし、老人と言うには眼光鋭く容貌には英知が宿る、どこか学者のような人物と出会っていた。
三賢者が一人、〝瑠璃の射手〟メイ・カスパルである。
「成程な……」
セシル=フレイルが残した言葉と符号が一致してくる。




――王、奴らは――魔術で作られた――存在でございます。
――そして、其れらを統べる――者たちは――三賢――者――。


苦悶の表情を浮かべ、消え入る声で男は王に告げた。


――お役に立てず――申し訳――無い。
――王、後武運――を――。


流麗な長い黒髪は体の震えが止まると共に、とうとう靡く事は無くなった。
赤の割合が強くなったローブに、一つ、二つと雫が落ちる。
消え逝く体温をしっかりと抱き締め、王は――啼いていた。




「セシルは……」
「……………………」
「……ああいう整った顔のくせに大酒呑みでな。酔っ払うと大変だった。何時も私に絡んできて、本当、コイツは私の家臣なのかと思ったこともあった。だがな、一度問題が起こると、一番前に出て私に力を貸してくれた頼りがいのある奴だった。いい奴だった……」
「……ああ」
「そんなセシルが『申し訳ない』と言って泣いていた。ローブが赤く濡れていてな。其れが仄かに温かくて、今でも感触が指に残ってる」
ギーゼルベルトは其れ以降口を閉ざし、そして、力一杯握りこんだ拳を砂の海に叩き込んだ。
「――夜明けと共に出るぞ」
細身の剣を鞘に納め、はだけたローブを元に戻し、立ち上がる。
「ああ……解った。俺も行く」
呟いた〝彼〟の声は静かな砂の海に響き、そして残されていく。
既にその応えを知っていたかのように、ギーゼルベルトは頷きのみで互いの意思の確認をし、そうして再び駆ける。砂の海に脚が取られ、しかし、苦とする表情を欠片も見せず。
俄かに明るい東の闇へ、と。



天啓が現れるのはもう少し後の話である。