銀月ストリングス 第一章・狭い狭い極東の果てで

(前回内容は左側のメニューから)

和葉がレトロビルから抜け、信号待ちをしていると風が一度だけ強く吹いた。街路樹の緑がざあざあと揺れ、アスファルトに篭る熱を一瞬だけ冷まして行く。ふと見上げた空は今にも泣き出しそうな表情を見せていた。
「やばい、やばい、早くいかないと……」
信号はまだ赤のまま。近道はないものか、と和葉は周辺を見渡す。しかし、すぐさま落胆する。和葉の待つ信号の先が一番の近道なのであった。ガードレールに手をかけて、うなだれるように上半身を沈め、赤く光る信号をほんの少し憎んだ。彼は、触れた鉄から伝わってくる熱をほんの少し鬱陶しく思うものの、しかし、これが夏なんだよなぁ、と肌で触れた季節への実感はあまり嫌いにはなれなかった。
「おっ、和葉ちゃんじゃないの。こんにちはー」
「……っ?」
そんな中、ふと、呼びかけられた声の方向を見ると、見知った人物が其処に立っていた。
「えっと、急いでるの?」
「そうなんですよ美津さん。……あ、あと、こんにちは」
言いそびれた挨拶を交わし、和葉は滝のように流れる汗を袖でぬぐい、体の向きを其の人物に向ける。
「あー、また美津さんって言った!さくらって呼び捨てにしてもいいのに」
「そうでしたそうでした。えと、さくらさん」
和葉が〝さくらさん〟と呼んだ人物は、和葉と同じくらいの背丈である妙齢の美女だった。
すらりと長い足に黒のパンプスを履き、タイトなダークグレーのスーツを着こなし、長く、煌びやかで艶々と光沢のある黒髪を一つに結っている。色の所為か、彼女が着こなすスーツはやたらと通気性が悪そうである、しかし、彼女自身は汗一つかいていない。快活そうな表情と、スレンダーな肢体から発せられるのは、暑苦しさとは無縁である涼気其のものであった。
「呼び捨てでいいのになぁ……」
和葉から目線を外し、口を膨らませて、悪戯を咎められた子供のような仕草でさくらは不満を漏らす。
「すいません、呼び捨てはどうも苦手で……」
右手で髪をくしゃくしゃっと掻き、和葉はぺこりと頭を垂れた。
「……ふふ、和葉ちゃんらしいね」
そんな和葉の様子を見てさくらは微笑む。まるで、期待していた答えが一字一句間違っていなかったと言わんばかりに。二人を傍から見れば美男美女のカップル其のものなのだが、当人同士に恋愛感情と言うのは存在していないように思える(少なくとも和葉はそんな事ある訳がないと思っている)。本名は美津さくら、和葉の住むマンションの隣人である。


和葉が今住んでいるマンションに引っ越した当初、律儀にもと言うべきなのか当たり前の事というべきなのか、今の世では正直判別がつかないのだが、和葉は引越しの挨拶として引越し蕎麦とタオルケット、そして何故これをチョイスしたのかはさっぱり分からないのだが、バケツサイズの特大プリンの三点セットを、和葉の隣に住む住む住人と和葉の真上と真下に住む住人に、其れらを持って挨拶しに行った。
上下、そして右隣の住人は快く其れを受け入れた。若いのに偉いねぇ、とかなんとか言う其々の発する最大限の美辞麗句を頂いた。もちろん、特大プリンにはノーコメントであったのだが。さて、左隣には誰が住んでいるかというと、そう、美津さくらなのであった。
さくらの部屋のチャイムを鳴らし、和葉は挨拶する。
「あの、隣に引っ越してきた速水和葉といいます。不束者ですが、何卒これからよろしくお願い申し上げます」
引越しと言うよりは婚約間際の古き良き女性の発する台詞のような気がしないでもないのだが、とりあえずは、心を込めて挨拶をしに来たと捉えるべきであろう。其れまで和葉が挨拶しに訪れた(もちろん和葉は同じ台詞を吐いた訳である)住人は、ぎこちなく愚直とはいえ、誠心誠意の真心を込めて自分たちに受け入れられようとしている青年の言葉に耳を傾け、笑みを漏らした。だが、さくらは吃驚する以外に何の感情も浮かばなかった。目の前の、自分と年の頃が近い青年が、廃れた風習を体現している事への驚きしか。
さくらが引っ越してきた当初、近隣住人への挨拶等は何もしていない。そうして、今現在も非常に希薄な〝単なるお隣さん〟という関係が続いている。確かに仕事が忙しいという事で億劫になっていると言う事も然る事ながら、そういう付き合いと言うのは、さくらにとって面倒以外の何物でもなかった。
「え、えっと。よろしくです!」
ずいっ、と和葉から渡された三点セットを見て、さくらはまたも驚く。
「な、なんで……?」
さくらとしては、特大プリンについての疑問を漏らしていたのだが、和葉には〝どうして挨拶に着たのか?〟という疑問として受け取った。
「あのですね、楽しく生活するにはみんなと仲良くなりたかったので……其れで挨拶をと思いまして……」
あたまをぽりぽりと掻き、どこか気恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「んーと、あのね、そう言う事じゃなくってさ」
「……すいません、ご迷惑でしたか?」
「えっ!違う違う、全然迷惑じゃないよ、うん。……えーっと、その、よろしくね。私の名前は美津さくら、えっと、速水……」
「和葉です。よろしくお願いします、美津さん」
さくらは握手を求めてきた和葉の手をきっちりと握り返す。
「うん、和葉ちゃんね?こちらこそよろしく。……あっ、でも〝美津さん〟なんて言い方やめて。出来れば〝さくら〟って呼んで」
しどろもどろになる和葉をよそに、さくらはじっと、和葉を見ていた。
「……えっと、さくら……さん?」
十数秒が経過し、沈黙を保っていた和葉から発せられたのは〝さくらさん〟であった。
そんな様子にさくらは笑いを浮かべた。
「もう、さくらでいいってのに」
さくらは、ほんの少しだけ頬を膨らまし、ぷいっ、と明後日の方に顔をそむけた。
「すいません、呼び捨てはどうも苦手で……」
握った手は未だそのまま。
突如、身を襲った、熱病のように拍動する高鳴りは当分治まりそうに無い。
和葉の手から発せられるぬくもりを、さくらはあったかいなぁ、と感じていた。


和葉の進行方向とは別の信号が点滅し、そろそろ青になるという際。チカチカ、と音を立てている訳でもないのに否が応でも眼に入ってしまう其れに、和葉は全く気づいていなかった。
「仕事ですか?」
「うん、これから雑誌の人と打ち合わせ。あっ、そうだそうだ、和葉ちゃん今晩あいてる?」
ふむ、と少し考え、幾秒もせずに和葉は結論を出す。
「多分大丈夫ですよ?」
「そっか。じゃあねぇ、たんまりとお酒持って今晩八時頃に和葉ちゃん家に行くね。いい?」
「はい、了解しました。おつまみでも買っておきます」
さくらは、やったぁ、と子供のような声を上げてはしゃいだ。
パンプスでアスファルトを蹴り、カツン、と着地すると周囲の眼はさくらを捉える。しかし、そんな周囲の視線を気にする事無く、さくらは笑みを浮かべたままであった。和葉はそんな様子に少しだけドキンと、大きく拍動した。彼女の様子には似つかわしくない仕草のギャップにである。しかし、表情は気取られる事の無いように其のまま。さくらは和葉の奥底にある動揺を感じ取る事は無いまま、話を再開した。
「もし良かったら楓ちゃんも連れてきてね。あの娘、飲ませると面白くて面白くて……。だってさ楓ちゃんったら……って、大丈夫?和葉ちゃん急いでるんじゃないの?」
何時しか、進行方向の信号が青から赤に変わる際になっていた。不覚にも、和葉は信号待ちしていることを失念していた。さくらの声に反応し、点滅している信号を見るや否や、和葉は前方に向けて全速力で疾走していた。形容するなら、風。とはいっても、脇を走る車に追い越されているので、団扇ぐらいの風なのかもしれないが。
「ごめんなさーい、もう行きますねー、さくらさーん。八時には家にいますからー」
和葉は走りながら後方に向けて声を放つ。雑踏に紛れる事無いように、大声で、さくらに届くように。
「うん。なんだか分からないけどかんばってねー」
「はーいー」
和葉は横断歩道を渡りきり、全速力でアスファルトを駆けて行く。
すぐさま遠く、小さくなっていく和葉の後姿をさくらは見ていた。
「……がんばってね、和葉ちゃん」
一言だけそう漏らして、和葉とは反対方向にさくらは足を進めた。
「やばっ、やばっ!」
一方の和葉は結構大きなタイムロスを取り戻すが如く、優男を思わせる表情とは対極にある、鬼神を思わせるような表情で長い長い路地を駆けていく。そんな様子を、びくっ、と周囲の人間は一度だけ肩を震わせ、茫然自失を絵に描いたような表情で、疾走する鬼神をぽかんと眺めていた。


待ち合わせ場所である〝市民公園〟というのは神薙市民公園の事を指す。
神薙市、というのは事務所のある土地の事なのだが、此処は非常に面白い土地区画が成されている。一つ例に挙げれば市民公園を中心に碁盤目状に道路が走っているという所であろうか。端的に言えば、まず東西南北に走る太い道が市民公園にぶつかる。其の太い道に隣接して細い道が定規できちっと測ったように敷かれているという具合である。
「やーばーいーよー」
只今和葉が鬼神の如き表情で駆け抜けているこの道路が、件の碁盤目の路地の中核の一つを担う、南側の太い路地である。市民公園は城跡を利用して作られた、という歴史を持っているためか、神薙の外に住む住民の誰しもが当時の道路を現代に生かしたモノなのだろうと疑わない。だが、其のステレオタイプはいささか早計である。神薙市に施設された、特徴的な碁盤目状の道路の歴史は意外と浅い。
終戦直後、神薙の土地は一面の焼け野原と化していた。軍需工場が土地の多くを占めていた、という事もあって、集中的に爆撃されたと言われている。そうして復興される際に、街並みを規律正しく、理路整然と道路や建築物を適材適所に配置した結果、其の恩恵として道路が碁盤目状になったと言う訳である。成るべくして成った。しかし、所謂、古都・京都のような地で見られる碁盤目状の土地区画とは一線を画す。
京都の碁盤目状に作られた路地と街並みは有名だ。確かに適材適所に寺社等を設置したと言われればそこで話が終わってしまうのだが、一説には、あの碁盤目状の基盤は風水術・陰陽道の賜物であるとされている。四聖獣である東の青竜、西の白虎、南の朱雀、北の玄武、が霊的に土地を守護し、鬼門鎮護の為に比叡山延暦寺、裏鬼門鎮護には彼の有名な陰陽師・安部晴明の屋敷が建っていたという。だがしかし、此処は神薙市。京都のような碁盤目状の道路・区画整備をされているとはいえ、其の本懐は合理的に事を運ぶために、土地の管理者が配置しただけの事。何とも浪漫のない話ではあるが、現実と言うのはいつも無慈悲に残酷なのである。
さて、そんな余談さておき、和葉は相変わらず一心不乱に前へ前へ駆けている。
途中、脇から飛び出してきた車に三度轢かれそうになったが、運転手から怒号が発せられる事は皆無であった。何せ和葉は、鬼神、なのである。人の身である矮小且つ虫けらよろしくな存在が神に意見をする事などもっての外である。刻々と迫る約束の時間、しかし、鬼神の如き表情を見せるまでに急いだ結果からか、和葉は時間以内に到着する事ができた。
和葉の眼に緑の塊が映る。勢いを弱める事無く、其のままの速度で、目の前にそびえるように屹立する、アスファルトの海に浮かぶ緑の浮島に向けてと足を進める。繁殖した緑に埋没するように存在している公園、つまりここが神薙市民公園である。
入り口は二つあり、北に一つ、南に一つ。事務所から市民公園に向かうと最短の入り口は南側にあたる。よって、和葉も例に違わず南側から中へと足を踏み入れた。
待ち合わせ場所として使われるのは公園内の広場である。
だが、広場という名を持つと言うには其れはあまり広いものではない。公園の総面積自体は、ちょっとした体育館が5つから6つがすっぽり入るくらいである、しかし、広場自体が占める面積の割合は非常に少ない。其の理由は市民公園の外観にヒントがある。
「くぬうぅぅぅぅぅぅぅ」
そして、和葉が奇声を発しつつ駆け上っている薄暗い急勾配の階段にもだ。
和葉が今駆け上がっている階段はやたらと薄暗い。曇天、という事も然ることながら、此処は太陽の恩恵を人が浴びる事はまず無い。脇から悠然と伸びる樹木の枝葉が遮っているのである。上空から見下ろせば非常に判りやすいのだが、公園の面積の大半は樹木に覆われている。其れも其のはず、当初、時の神薙の管理者は此処を憩いの場所としての公園とはあまり考えていなかったのだ。ちなみに市民公園の元々の名は〝神薙自然公園〟である。市民公園という名になったのは、極々最近の事であった。しかし、市民公園という名になったとはいえ、機能は相変わらずである。市民公園を訪れる人間の大半は自然観察が殆ど。
現在は季節がら、壮大に並ぶ緑の楽園という顔を見せている市民公園だが、しかし、繁殖しているのは四季折々の表情を見せる樹木や花である。四季が巡るたびに姿を変える風景のため、市民公園は県内でも有数の観光地となっているのである。
和葉が長く薄暗い階段を上りきると、視界が一気に広くなった。
「とーちゃーく!」
バンザーイ、と両腕を天高く上げ、フルマラソンを走りきった走者のようにぐったりと肩を落とし、ひぃひぃと虫の息を発していた。
やや呼吸が落ち着き辺りを見回すと、狭い広場は、何時もと比べれて幾分賑わっているように思えた。とはいえ、広場にいる人数は二桁にも満たない。そう、此処の狭さ故に、やたらと多いように思えるのである。
まず近くにいたのは、まるで玩具のように首を動かして平謝りするサラリーマン風の男と、眉間に皴を作りながら叱責する上司と思われる男。次に見えたのは、広場の中央にある時計塔付近にいた、学校帰り途中に立ち寄ったであろうランドセルを背負ったままの姿で遊びに興じている小学生。やや遠い砂場には、砂で建設した大きなお城と、実際に其れを建設したであろう年端もいかぬ子供たちがおり、其の砂場の近くのベンチには近所の奥様方であろう四人の女性が井戸端会議に花を咲かせていた。
和葉は歩みを進め、中央の時計塔へと向かう。やがて、和葉から見て右の方、井戸端会議をしている奥様方とは真逆に位置する、質素な作りの屋根付のベンチが眼に入った。
とりあえず其のベンチに腰をかけ、北と南の入り口を重点的に見ていた。今も尚バクバクと拍動する心臓を静めようと深く深呼吸し終わると、和葉は思い出すように依頼者の名前を呟いていた。
「クラインさん、だっけか。外人さんなのかな……?」
視界に入った中央に位置する小さな時計塔の針は、ギリギリではあるが、まだ三時を指してはいなかった。そうして幾秒かが経過して、ぽつぽつ、雨が降り始めた。
「……待つか」
雨音がしっかりと耳に入るようになってきた。時間にしてみればほんの数秒の合間であろうか、和葉が屋根付のベンチに腰をかけると時を同じして、降雨の勢いが徐々に増してきた。
先程まで広場にいた人達は皆、蜘蛛の子を散らすように公園から出て行った。和葉は雨に当たらないよう、屋根の下に入ったままで、泣き始めた灰色のキャンバスを眺める。
どくん、どくん、と雲は蠢いていた。
上空の風は強いらしく、雲の起伏が移動しているのがしっかりと眼に入る。
和葉は忌々しげに空に呟く、
「早く止まないかなぁ……」
と。
直後、雷鳴が轟き、灰色の中を筋の通った青白い稲光が突き進む。公園に出現する水溜りは、既に数え切れないほどになってきた。頬をしめらすひんやりとした湿気が辺りを漂い、其れを運ぶ風が和葉の体から熱を奪っていく。真夏には似つかわしくない冷たい雨、という事実を和葉はようやく知る事になった。


―――――ごーん、ごーん、ごーん


ざあざあと降りしきる雨音に潜み、中央の時計塔の鐘が三度ほど静かに鳴り響く。
正確に、定時を示す鐘の音である。
すると、北側の入り口から一人の女性が傘を差し歩いてきた。特徴的なかわいらしいウサギのぬいぐるみを傘を持たぬ左手で抱きながらである。彼女の髪は見るも鮮やかな銀の色。細くしなやかな絹糸を思い浮かばせるような繊細さを持ち、仄かな風が吹くたびに、一糸乱れぬ動きで靡く髪は天女の衣を思わせた。背は綾瀬楓よりかなり高め。しかし、和葉の横に並べば、彼の首辺りに頭がつくぐらいであろうか。彼女は黄色いレインコートを羽織って、きょろきょろと辺りを見回していた。
「クラインさん……かな?」
和葉が女性の方をしっかりと見ると、向こうは既に和葉を視界に入れていた。和葉は立ち上がり軽い会釈をする。彼女は和葉の其の動作を見るのとほぼ同時に頭を下げた。


降りしきる雨はまだまだ止みそうにない。夏特有の通り雨のように思えていたのだが、西の空は未だに分厚い暗雲が漂っている。
「エリノア・クラインです、よろしくどうぞ」
和葉の隣に座り、手に持っていたウサギのぬいぐるみを脇に置く。雨に濡れた傘をたたみ、和葉が座っていたベンチの横に立てかけた。黄色いレインコートは既に脱ぎ去っており、雫を払いベンチ脇にたたまれていた。
「はじめまして、俺は神野辺相談所の速水和葉といいます。とある事情により綾瀬楓の代わりに来ました。クラインさん、こちらこそよろしくです」
遠くからではよくは分からなかったのだが、近づき、そうして見えたエリノアの姿には凛々しさが溢れていた。細く流麗な眉と引き締まった顎のラインに、牝豹を思わせる鋭い眼。脱ぎ去ったレインコートの下には、肩が露出する純白のドレススーツ。しかし其の凛々しさというのは、表面上のみを取ればの話である。彼女が見せる挙措の一つ一つには優雅さが醸し出され、今着ている純白のドレススーツの事も相まって、一見すると何処かの国のお姫様のようであったのだ。しかし。
「ク、クラインさん。フェンシングとかってしてました?」
不思議とそう思わせる何かがあった。
「?」
「あ、なんでもないです。すいません」
顔を真っ赤にして和葉は少しだけ俯いた。
結論から言えば、和葉にそう言わせた原因は彼女の露わになった肢体である。贅肉という贅肉がまるで無い。標準の女性が見せる柔らかさを醸す其れとは全くもって異質。しかし、細くしなやかではあるものの、非健康体とは全くもって別物。つまりは、強圧的なまでに引き締まった健康的過ぎる肢体なのである。というより、二の腕がくっきりと割れていたりする。
(若い熊なら、もしかして)
誰が思ったかはあえて言明しないが、優男の奥底に潜むダークな部分は、ひっそりとそんな事を思っていたみたいである。
「では、クラインさ……」
和葉が会話を切り出そうとする其の際、一瞬ではあるが、エリノアは密かに顔をしかめた。
「あの…………できればエリノアと呼んでいただけますか?」
口調は優しく静かながらも、クラインと呼ばれる事への微小な拒絶を示す。
「失礼しました。エリノアさん、ですね?了解しました」
「いや、〝エリノア〟と……」
つまりエリノアは、自分を呼び捨てにしろ、と言っているのだ。
「分かりましたエリノア〝さん〟。詳細は事務所で聞くことになるかもしれませんが、大体の事を教えていただけますか?」
しかし、本懐を和葉は理解していなかった。
「……………………ま、どうでもいい事ですね」
「えっ?」
「いえいえ、何でもないです」
自分の呼び方なんてどうでも良い事だ、と諦めのような表情を浮かべ、エリノアが折れた。
和葉の言った〝さん〟付けの呼び方は、偏に速水和葉の習性というべきものである。
依頼人に対しての呼び方は様々であろうが、基本的には〝様〟を付けるべきなのであろう。この場合で言えば、依頼人であるお客様が〝呼び捨てにしろ〟と言っているのであれば、上手に互いの妥協点を探ってもよさそうである。しかし和葉は、基本的には〝さん〟付けで依頼人を呼ぶようにしていた。曰く、その呼び方は自分らしい、だそうだ。
社会に出て仕事をする以上、必要なビジネスマナーというのは数え切れない程に存在する。
其のマナーから逸脱した行為をすれば、流石に大袈裟かもしれないが、社会不適応者の烙印を押される事も無い訳では無い。其れまで愛顧されていた企業、もしくは消費者が離れていく事だってあり得るのである。
マナーとは、言わば礼儀作法の事である。社会の歯車になっている人間や企業の大多数は礼儀作法を重んじている。其れは、彼らは相対する人間、若しくは企業が社会に受け入れらている存在であるか否か、つまりは、自分達と同じ存在であるか否かの判断項目の一つとして、マナーを挙げているのである。これから共に仕事をするであろうパートナーが、社会という舞台において〝非常によろしくない行為を平気でする〟のであれば、仕事が円滑に進まないことばかりか、下手すれば自分の方に被害が及ぶ。そのため彼らは、マナーという形骸化されつつある、機械的、形式的作業を重んじるのである。
しかし、主観を省き、至極客観的に考えてみれば確かに其の通りとも思える節もある。
つまりは、感じの良い人間と感じの悪い人間がいて、付き合うとするのならどちらが良いか?という訳である。多くは、付き合うとするのなら前者を選ぶであろう。つまりはそういう事なのだ。
しかしながら、そんなマナーがまかり通っているのは、社会に存在する至極一般的な仕事の場合のみである。其の道理に従うのが大多数であれば、裏を返せば、其の道理とは逸脱した存在もあるという事。では、神野辺相談所の業務とはどのようなモノなのだろう。そして、相談所に仕事の依頼をする人物というのはどのような者なのか。所謂〝店〟と〝お客様〟の関係にあたるのであろうか。
「和葉さん。では、単刀直入に言います」
答えは否。神野辺相談所の行ってる行為は一般的な企業におけるサービスとは対極にあるものである。足を運ぶ人というのも一般的な企業のサービスを求める人物ではない。つまり其の時点で〝店〟も〝お客様〟も世の道理から逸脱した存在になる。もっとも、神野辺相談所は相談所という名があるのに、相談と形容されるような行為は一切行っていない。専ら行ってる業務といえば。
「私に〝瑠璃の射手〟の殺害のため、力を貸していただきたいのです」
武力を行使する業務、ぐらいである。
先程、顔をしかめたエリノアであるが、本当にどうでもいい事であった。〝さん〟を付けられようが、〝様〟を付けられようが、〝お前〟と呼ばれてもよかったのだ。事実、過去に、各地に点在する神野辺相談所のような所に仕事を依頼した際、エリノアのパートナーとなったエージェントに〝お嬢さん〟と呼ばれた事もあった。結局其の時も、どうでもいい事だ、とエリノアは認識した。先程の行為、つまりは自分の嗜好を示したという事のみ。速水和葉が、綾瀬楓が、エリノア・クラインが、生きている世界というのは、仕事の相手をどう呼ぶか、などという事は非常に瑣末事であり、全くもって意味が無く塵あくたと変わらない。
そう、依頼人から求められるのは〝明確な結果〟であって、〝温かいサービス〟ではないのである。
「……先日、ドイツのハイデルベルクにて、〝咎人〟の存在が確認されました。名はメイ・カスパル。遠い昔に、〝瑠璃の射手〟と呼ばれた代行者の成れの果てです」
エリノアは重い口調で、依頼理由をとつとつと話し始めた。
「代行者……だったんですか?」
「ええ……悲しい話ですが自分でそう言いましたからね。彼に何があったかは分かりかねますが、彼もまた〝堕ちた代行者〟という事なのでしょう」
落胆の表情を見せる和葉をよそに、エリノアは淡々と話を続ける。
「被害は小さな村が一つ、人数にすれば約十名ぐらいでしょうかね。其処の村民の魂は須らく食われていました。私が駆けつけたときには……もう。それで、隙をみて奴と一戦交えたんですが……」
急にエリノアは言いよどむ。つまり、此処からが、彼女が仕事を依頼した理由である。
「……彼は〝転生霊珠を〟とだけ言葉を残し、姿を消しました。……いえ、正しくは逃げられた、ですか……ね?」
うつむき、ベンチの横に指を滑らせ、自嘲気味に笑った。
「えっ、〝転生霊珠〟って……。何故に其処でうちの綾瀬が出てくるんですか?」
「私が知りたいくらいですよ……ほんと」
ふぅ、とため息をつき、エリノアは苦笑いを浮かべ、ぽりぽりと頭を掻いた。
同じように和葉も首を傾げ頭を掻いていた。
しかし、幾秒か経ち、ふと、和葉の頭に別の疑問が浮かぶ。
「……ん? エリノアさん。もしかして、うちの綾瀬を知ってるんですか?」
そんな質問にエリノアは顔を明るくし、仄かに笑みを零した。
「ええ勿論。だって楓は私の弟子ですから」
「……は、はぁ」
どうやら和葉の頭では処理しきれない答だったようだ。エリノアの声に生返事で返し、口をぽかんと開け広げたまま、彼女の顔を見ていた。
「うふふ、貴方の話は聞いてますよ?」
「はぁ…………」
「曰く、おちょくりやすい男だとか。曰く、プリン中毒だとか」
「エ、エ、エエエ、エリノアさん?」
思考回路に強烈な電気信号が迸る。和葉の頬は一気に赤くなり、呆けた口からは声にならない声が発せられる。そうして和葉は、ようやく先程の言葉をかみ締める。この方は本当に楓さんの師匠なんだ、と。
「他にも色々聞いてますよ? 几帳面すぎて一緒にいると落ち着かない、とかとか」
「エリノアさん、ストップ。ストップです」
にこりと和葉に笑みを向け、エリノアは口を閉ざした。
「すいません……お願いですから聞かなかった事に」
和葉は、紅潮する頬を隠すように、手のひらを顔面にあてがう。
エリノアは、そんな照れている和葉を優しい眼差しで見ていた。そして。
「でもね、楓はこうも言ってましたよ?」
其の眼差しに似た優しい声で、違う意味で和葉の赤面を助長させる言葉を放った。
「優しすぎて困る、って」
「……っっ」
和葉の頬の紅潮は勢いを増し、真っ赤に実ったトマトのような色を見せていた。
「これからも楓の事よろしく頼みます、和葉さん?」
まるで、「娘さんを僕にください」的な台詞を放った後の、母が言う了承を示す台詞のようで、非常に和葉は気恥ずかしい思いをした。気恥ずかしい思いをしたので、和葉は話を軌道に戻そうと試みる。
「……えっ、えっとですね。そそそそ其れで当面はどうしましょうか?」
そんな様子にエリノアは心の中で笑みを浮かべる。しかし、和葉の意を汲み取り、其れらを表面に出す事ないままで自分の意見を言う。
「そうですね……。とりあえず、楓には適当な事を言ってごまかしましょう」
「えっ、何故です?」
「……楓を〝瑠璃の射手〟と接触させたく無いんです、私は」
短いため息を吐き出し、エリノアは続ける。
「戦いの最中、いきなり〝瑠璃の射手〟は思い出したように〝転生霊珠〟と呟きました。第六感っていう奴なんでしょうかね。〝瑠璃の射手〟との接触は、楓にとって何か良くないことを引き起しそうで……。普通の接触はもちろんの事、楓に情報を与える事すらも……」
エリノアが話すたびに所在無さ気に動く指は、小刻みに震える肩は、話すたびに潤み行く瞳は、何を示すものなのか。静けさ漂う沈黙の中、しかし、雨だけが音を立てており、やたらと耳障りであった。しかし、エリノアにとってはそんな雨に少しだけ感謝した。今すぐにでも零れてきそうな泣声を隠してくれているように思えたから。
すると。
「わかりました!」
突然、和葉は喧しい程の大声を放った。其の行為にエリノアは幾分驚き、直後、更に驚いた。
「えーっとですね、これは大決定です。楓さん護衛任務開始です!」
にこり、と。太陽に見紛うほどの笑みをエリノアに見せていた。一点の曇りも迷いも無い、決意に満ちた芯の強い笑み。其れはエリノアの暗い考えを払拭するには充分すぎる。雨を吹き飛ばす、心優しき高気圧の如くの其れは、エリノアの頬を伝った一筋の雫をかき消すほどにあったかかった。
「……………………くすっ。そうですね、開始しましょう」
「…………だから、ねっ、エリノアさん」
「?」
「だから、泣かないで下さい。何かが起きると決まった訳じゃないんですから、最悪の場合なんて考える必要ないですよ。常に最善、ポジティブにシンキングです。俺たちで楓さんを守れば良いだけの話です。瑠璃の射手になんてぜーったい楓さんは渡しません」
ポケットに手を入れ、ハンカチを手にした和葉は。
「あっ……」
エリノアの頬をゆっくりとぬぐう。
「ねっ?」
ハンカチごしに感じるエリノアの体温は氷のように冷たかった。和葉のほんのりとした体温が移り始めた其の頃には、エリノアは、控えめな笑みを漏らしていた。
「そうですね。ありがとうございます、和葉さん」
「いえいえ、どういたまして……ん?あれ?」
「どうしました?」
「えっと、少々疑問が発生しました」
「はぁ……」
「どうしてエリノアさんは……」
ふと、一陣の風が吹いた。其れと同時に周囲の冷気を一気に運んできたため、和葉の、そしてエリノアの首筋がぞくりと冷えた。露出した肌がブルッと震え、すぐさま粟立った。
「うわっ、寒っ……。すいませんエリノアさん、其の質問は又今度。とりあえず事務所に行きましょうか」
立ち上がり、和葉はエリノアに促す。
「……そうですね、私もちょっと寒くなって……って、え?」
エリノアの形相が一気に険しくなり、眉間にしわを寄せて、周囲の気配を探り始めた。
「っと。もうちょっと、先になるかもしれませんね……」
和葉はそんなエリノアの様子を一瞥する事無く、事務所から持ち出してきた黒皮のケースを手に取り、黙々と中からとあるモノを取り出す。そうして左手に携えた其れは、黒皮のケースが見せる黒色よりも濃いモノ。漆黒の鞘に同系色の柄巻が見せる容貌は日本刀である。鐔に左手親指を掛け、右手を柄巻に軽く添える。
刹那、まるで脊髄に細い一本の銅線が突き刺ささったように、両者ともぴくんと背筋が張り詰める。其れは、何処からか放たれた意識の棘に対する身構え。
「和葉さん!」
「分かってます!」
二人は突如声を高く上げる。意識の棘の正体は敵意を剥き出しにした、どす黒い感情、つまりは殺意。鋭利な刃物で肢体を舐めるよう、気を抜けば瞬時に切り刻まれてしまいそうなモノ。今二人が感じているのはそんな感覚であった。
「瑠璃の射手ですか?」
和葉は意識の眼を周辺に広げ、そちらに注意を払いつつもエリノアに問う。
「いえ、違いますが……非常に、酷似して……」
話は其処で途切れる。
二人の居る屋根付のベンチ。其の上で、カタン、という雨音に紛れた微かな音が発せられた。
「「っ!」」
二人は転がるように前方のぬかるみへ体を投げ出す。視界が一回転した後、体を冷たい雨と泥が覆い、先程の冷たい風とは比較にならないほど、一瞬にして全身が粟立った。しかし、そんな事を気にする事無く二人はすぐさま体勢を整えて屋根付のベンチに視界を戻す。
―――――其れはどんな魔術なのだろう。
突如、降りしきる雨の中、一本の火柱が立つ。其の火柱は轟々と音を立て、先程まで二人が居た屋根付のベンチを一瞬にして飲み込んだ。
降りしきる雨の勢いは今も尚弱まる事を知らず。加えて本日の雨はやたらと冷たい。風は強く吹きだし、眼に映る視界は非常に狭い。しかし、火柱は現実に存在していた。しかも、脈々と蠢く火柱の勢いは降り注ぐ雨に対抗するが如く、火柱の勢いが増していく。
突如現れた景色は到底ありえないモノ。
広場には日常とは果てしなく乖離した、異様な世界が展開されていた。
何時も通りに真夏日を迎えるであっただろう、とある日常に存在する一日。
しかし、これが代行者としての日常である、とある一日。
非現実に彩られる、不可解極まりない世界の住人である和葉の日常が幕を開ける。
「来ます!」
脈動した火柱から黒い外套を着こなした二つの影が飛び出す。
燃え盛る火の柱、其の中で、一人取り残されたウサギのぬいぐるみが天に召されていった。