銀月ストリングス 第一章・狭い狭い極東の果てで

(前回内容は左のメニューから)

茹だるような暑さが毎日のように続き、生き物は皆、太陽の恩恵を須らく受けている。しかし、こうも毎日というのは流石に嫌気がさしてきてしまう。淡雪がちらちらと降る季節には恋しいものの、やはり夏になると非常に厄介な存在に変わってしまう。人間が抱くエゴ、と言われれば其れまでなのだが、一方的に降り注ぐ太陽熱と紫外線はどうしようもないほどにうざったいと感じてしまう。街を闊歩する小麦肌の群れは、偉大な発明である冷房の恩恵を享受する事ができるが、動物園のホッキョクグマはなすがままにぐったりと飼育員が撒く水に群がっているのだろう。うん、きっとそうだ。でもそんな季節が織り成す日常を人々、生き物は過ごし、毎日を生きていくんだろうな。
季節は真夏、場所は極東の果て、日本。
どうやら今日も、夏が見せた日常を過ごす事になるんだろうなぁ……。
と、赤茶けた窓を丁寧に拭きつつ、そんな他愛の無い事を頭に浮かべる青年はいそいそと次の仕事に取り掛かる。次は事務所内の掃除と上司のデスクの整理だ、と心の中で呟いて。
「かずはー、エアコンの温度もうちょっと下げてー」
「はーい、わかりました」
……とりあえずエアコンの温度を下げてから取り掛かろう、と青年は心の中で呟いた。


この事務所を開設した当時、何もかもが真白に作られていたそうだ。床を除いた、壁、天井、窓、部屋を構成する上で大事な部分は何もかも。聞くところによると、この事務所の創設者である神野辺誠一郎が極端なまでに白色を好むためらしい。ところが季節が巡る事、三度。今はそんな様相を微塵も感じる事はなくなってしまった。
事務所が入っている青空ビルの外観は、洋館を思わせる赤レンガの外壁に、正面玄関上部には揚羽蝶を形作るステンドグラス、二階から四階までの窓の付近には漫画で見る跳ね橋の様な装飾用のアーチ模様が走っている。周辺地域のビルが何処にでも見られるような至極一般的な近代的な仕様のビルであるため、この青空ビルは所謂レトロビルの愛称で親しまれている。そんな青空ビルは内部も勿論、外観から想像した通りのままで、大きな齟齬はまず感じられない。床一面、ニス塗りの黒みを帯びた赤黄色の板で張り巡らされており、柱と天井の継ぎ目には大仰な飾り彫りが施されている。脇を見ると、内壁は真白な石膏がキッチリと塗られており、良く見るとヒビとは異なる細かな波目模様が施されている。其れらは偏に丁寧な仕事の賜物と言えよう。
さて、件の事務所は三階の一番奥に陣取っている。
表札には神野辺相談所、と、其れだけでは到底何の相談所かは判りかねない、非常に胡散臭い名が記されている。しかも、其れはファンシーショップの販促に使われる様な可愛らしい字体で書かれているためか、相乗効果で余計に胡散臭さの度を増していた。ドアを開け、中へと一歩足を踏み入れると、すぐさま赤茶けた世界が眼に飛び込んでくる。
此処を初めて訪れる人は一瞥すると大体このような疑問を浮かべる。部屋一面に土でも塗りたくってしまったのだろうか、と。そうして、これらの原因は。
「和葉、煙草ちょーだい。…………あ、うん、投げていいよー」
ほぼ、こいつの所為で間違いない。
軽いヤニ中に陥っているためか、手持ち無沙汰になるや否や煙草に火を点ける。其れが積もり積もって真白な壁は何時しか土壁へと変貌した。一角にある可愛らしいウサギのポスター。剥がせば恐らくこの事務所の歴史を垣間見る事が出来るのだろうが、そんな七面倒臭い事をせずとも良い。ウサギのポスターは土壁と同系色に染まり、可愛らしい泥ウサギへと変貌している。これだけで此処の歴史は十分想像できると言うものだ。
「和葉、お茶ちょーだい」
「はいはい、今淹れてきますよ……っと」
軽やかに隣の給湯室に足を運ぶ優男の風貌を醸す青年をよそに、ソファにどっしりと構えたまま、サスペンス小説を舐めるように凝視する人物がいる。名を綾瀬楓と言う。
性別は女性、童顔、身長は標準より相当小さく、スリーサイズは言明すると本人が怒りそうなので幼児体型っぽいという事にしておく。本人曰く、年齢は永遠の十八歳などと豪語しているが、本当の所は二十五歳。ちなみに趣味は金儲け、貯蓄、資産運用である。
楓はピンクのキャミソールワンピースを身に纏い、左手に件の小説、右手を腰に当てて、ぐきぐき、と骨を鳴らしていた。彼女が見せる背や容姿の事もあり、子供が背伸びして大人の真似事をしているように見受けられるが、だとしても、真似事の対象とされた大人は相当駄目な部類の大人だと思われる。だが、骨を鳴らした後の辛そうな表情、無意識に空いた手で肩をぽくぽく叩く様子は、誰かを真似てという事では無く、実際必要だからそうしたまで、と言わんばかりの極々自然な行動だった。故に、彼女は外見から伺え得る歳相応の少女では無く、実年齢以上に疲れきったオヤジ臭い女性という事が判るであろう。
楓の目線斜め上には二世代前の古い空調機器。先程、限界ギリギリまで設定温度を下げられたためか、ゴゴゴゴとやたらと音が鳴らしていた。そんなぽんこつの恩恵を受け、楓は快適に真夏の午後を過ごしている。


楓はこの事務所の一応の主となっている。
神野辺相談所という名があるというのに、主は綾瀬楓。
確かに神野辺という姓を持つ人間が居る事は居るのだが、最近当人は事務所に顔を出さない。其れも其のはず、神野辺は只今海外旅行の真っ最中なのである。その間を引き継ぎ、神野辺と取って代わって楓が主になったと言う訳である。
二人の関係は祖父と孫。神野辺の娘の子が楓に当たる。一応は親族関係という事になるのだろうか。しかし二人の間に、〝相手を想う気持ち〟という温かいモノは皆無である。
過去に何があったのかは二人しか判らない。
其れは、とある事件からこの事務所の構成員になった青年とって、別段与り知らぬとも良い事である。他人の家族にあまり干渉すべきではないと考える故に、興味をそそられる事柄ではないのだが、しかし、其れらを無視し見過ごす事ができないのもまた事実なのであった。
己が働く職場の雰囲気は可能な限り良い方が、と青年は考える。血の繋がりが……とかを一切考えない所を見ると、結構ドライな考え方かもしれないが、正直なところ其の余裕が無いのである。
楓と神野辺の衝突、互いの行き場の無くなった怒りの矛先になるのは決まって青年。そんな不文律がこの事務所にはある。だからこそ青年は困窮し、一度胃に穴が空いた事もあった。ちなみに、この事は二人に告げておらず、自分の胸の奥底にしまった秘密である。だが、恐らく口にしたところで自分の待遇が良くなる訳でも無い、と青年は考える。
例え、一時的に待遇が良くなったとしても、然る後、待遇は元通りになり、矛先は自身に向けられ再び困窮する事となるだろう、と。そうして青年は考える事をやめた。思慮を巡らせ、其れが原因で再び胃に穴が開いてしまっては本末転倒であるからだ。
「早くしてー」
「待ってくださいって、そんな早く沸騰する訳ないでしょうが!」
「ああもう、つべこべ言わず持ってきなさいよー」
給湯室のドアの外から聞こえる楓の声に青年はほんの少しだけやきもきした。とはいえ、青年の顔つきに〝嫌〟という表情は皆無である。青年は律儀に、どうしたら早く沸騰するのか、と考え始めていた。そうして実行したのは水を入れたやかんを一心不乱に揺らし火にかけるという事。というのは、〝高熱の物体は分子の振動が大きい〟という既に化石と化した中学時代の理科の知識を拾い上げたからである(揺らすという行為にどれだけの効果があるかは分からないが)。
給湯室はかなり暑い。事務所と一繋ぎになっているとはいえ、事務所に付けられたぽんこつからの恩恵を受けることは叶わない。つまり、冷気が届く範囲外に給湯室が位置されているのであった。火をかけたコンロの上に(青年が握ったままの)やかんを置く。やかんを熱するだけならばまだしも、周囲に撒き散らすありがた迷惑の恩恵は給湯室をサウナさながらの温度まで上昇させていた。
「あちーよー、あちーよー」
空調の恩恵の無い給湯室で汗水流して一心不乱にやかんを揺らす、優男。
其の光景を奇妙かつ珍奇と言わずして何と言えばいいのだろうか。良くて危ない男、悪くて変質者である。しかも、青年は笑顔を浮かべていたりもする。変質者の疑いが更に増す。
青年は、この、本来の仕事とは遠く及ばない雑用の数々を全く苦には思っていない。
青年は考える。肉体的に忙しい方が、居心地の悪さからくる精神的苦痛よりはいいんだ、と。
どっちもどっちだよな、とまともな突っ込みをする人間は残酷な事にこの事務所にはいないのである。故に青年は、気持ち悪いほどの満面の笑顔を浮かべつつ、熱々のお湯を急須に注ぎ、お茶を淹れる。神が与える試練を、嫌味一つ零さずに受け入れる敬虔な修道女が如く。
慣れた手つきで楓愛用の湯飲みに茶を注ぎ、冷気が漂う、心地良い世界へと足を踏み入れる。
どうだちょっとは早いだろう、と自慢げに胸を張った青年をよそに。
「はーやーくー」
という、楓の相変わらずの反応に、青年はちょっとだけ肩を落とした。
「…………はい、どうぞ」
「ありがとね」
お茶を手渡す青年はうなだれたままである。しかし、青年のそんな様子を気にする事も無く、と言うよりは、一瞥もせずに楓は其れを受け取る。彼は再び自分の居場所である、塵一つ無い、ぴしっと整理整頓されたデスクに向かう。しかし其の途中、青年の頭に一つ思い出した事があった。
「あ、そうだ。ところで先生?」
回れ右をするように、再び楓を視界に収める。
「ん?」
楓は全くもって興味なさそうに反応した。もちろん小説からは片時も眼を離していない。
彼女の読んでいる件の小説、〝探偵、藤堂順平シリーズ・霧の中の殺害現場(下)〟にて、クライマックス間際、冴え渡り閃く推理により連続殺人犯を追い詰めようとしていた探偵が、乗用車と衝突してしまうという不慮の事故に遭い生死を彷徨っている最中なのである。下巻、それも、もうすこしで巻末だと言うのに探偵が瀕死であるというのは、物語の展開に幾許か疑問符が付いてしまいそうなのだが、とりあえず今は其処は放置しておこう。
重要なのは、現在、楓はまだ犯人が誰なのか判っていないという事だ。そのため、自分なりの推理をしながら読み進めているのである。楓が青年に自分から声をかけるのは、快適な環境にて推理し読み進めていきたいためであって、用がなければ音をすらも立てて欲しくなかったりする。正直、楓は不機嫌になった。
「えっ、そんな事で?」と思う方も多々いるとは思うが、この綾瀬楓という女性の沸点は異様に低い。しかし、彼女は其の怒りをあまり言葉に出さない性格故に、言葉では無く態度、寧ろ行為でもって怒りを示す。例えば持ってきてくれたお茶を、無言のまま一気に飲み干し、空になった湯飲みを青年に投げつけたり、という風に。
……結構陰湿なのである。
そうして、実行に移そうとするまさに其の時。
「先生担当の依頼人を迎えに行かなくてもいいんですか?」
青年のこの一言で目が覚めた。
楓が、慌てて壁の時計を見ると、針は二時三十分を少し越えていた。
「あ、あれ?約束の時間って何時だっけ?」
「二時四十五分ですね、確か」
「場所は、市民公園だったよね?」
「ええ、そうですよ」
「走ってどのくらいだろ?」
「そうですね……。多分、十分くらいですかね?」
「どうしよ、どうしよ、間に合うかな?」
「……うーん」
一瞬にして楓の頬から血の気という血の気が引いていった。
そうしてぴたっと。
楓はソファからもたげた頭を青年に向けた姿のままで、十数秒、完全に動きが止まった。
「え、えと……」
青年のおどおどとした声と同時にこちらの世界に戻ってきた楓は、ぬはっ、と急に息を吸い込み、フゴッ、と子豚の鳴き声のような音を盛大に鳴らした。正直みっともない光景ではあったが、其のおかげか新鮮な酸素が楓脳に駆け巡っていった。
「ゃぁぁぁぁぁ!」
声にならない叫び声を上げつつ、背中を一瞬ソファに埋め込ませ勢いよく前へ。其の反動でソファから勢い良く腰を浮かすや否や、タタタタタッ、と駆け、高速で青年の前に立つ。
「和葉、なんで言わなかったのよ!」
ずびしっ、と青年の眼前に指を突きつけるはずだった楓。しかし、楓の背というのはちんまりしているのだ。結構、いや、かなりちんまり。其のため、楓本人は眉間に突きつけようと考えていたのだが、実際は青年の胸へ、ずびしっ、と突きつけていた。
青年は楓のそんな様子を気にも留めず、何時もの事であります、と言わんばかりに見事なまでにスルーしておき、自己弁護を開始する。
「い、いやだって、何回も声をかけましたよ俺。なのに先生ったら『うん』とか『うぃー』とかって生返事するだけだったし……」
……はて、なんのことでしょう、楓脳にはそんな記憶は欠片もございません。
口をだらしなく開けたまま、楓は思い返してみる。
「…………うむぅ」
(記憶にあるような無いような、いや、あるかもしれないけど、さっぱりよね、でも、和葉の事だから絶対言っていたと思うけど、確実に思い出せないとなるならば確証は持てないでしょうよ、じゃあ、確証が持てないとすれば……)
楓はブツブツと一人の世界に篭ってああでもないこうでもない、と考える。現実世界に其の小声がだだ漏れしている事は楓は知らない。しかし、青年の耳には入っていないようなので、特に問題は無かった。
(でも確証が無いからといって、和葉が全面的に悪いって事にはできないよね、だって、和葉は結構そういうところしっかりしてるし、でも、このままじゃ、全て私が悪いって事になっちゃう……よね……?)
「あ、あの……」
流石に青年は、自分の胸付近を凝視しながら何かをぶつくさ言っている楓を不審に思った。其れも其のはず、眉間には深々と皺が寄り、ずびしっ、と指を突きつけたまま、体を小刻みに震わせながらもごもご言っているのだ。其の姿は奇妙、珍奇を絵に描いたようなものである。
「……その、先生?」
事実、虚言でも謀策でも姦計でもなく、青年は何度も声をかけていた。
楓の命により、乱雑にファイルが置かれている楓の机を整理していたら、〝今日の予定〟と書かれていた紙を発見し、とりあえず朝に一回、真昼に二回、二時を回ってからは五回ほど其れを伝えた。しかしながら、朝からずっとサスペンス小説を読んでいた楓は上の空で返事していた。仕方の無くなった青年は、走れば間に合うであろうギリギリの時間に同じように告げ、其れでも「うん」とか「うぃー」とか返事されたら、自分が行こうと思っていた。
そうして、最後に声をかけた時、彼女は運悪く(?)しっかと反応してしまったという次第である。
「…………どうしょ、悪いのは私だ」
楓は、少なくとも自分に対しては、青年が嘘をつくような人間ではないと信じている。
確かに、楓の大好物であるプリンを勝手に食べちゃう事等のごまかしはあるのだが、仕事に関しては全くもって別で、嘘をつくような人間ではないという事は、青年以上に、直属の上司である楓は知っていた。
だからこそ楓の。
「………………………………」
この沈黙である。
しかし忘れてはいけない。楓は陰湿であるという事を。
レベルで言えば悪魔子爵級ぐらい?
「先生、とりあえず急ぎましょうか? 走れば間に合いますって。ねっ?」
青年は楓の肩を両の手でぽんと叩き、急ぐように促した。そんな青年は満面の笑みを浮かべている。彼の奥底に潜むダークな部分が、余計な仕事が一つ消えたぜヤッホー、と心の中で言ったかどうだかは定かではないが、とりあえず笑みを浮かべている。
ぐったりとうなだれたままの楓はこくこくと頷く。
こくこくと頷いたまま、青年の死角に入っているテーブルに転がっていたペンを握る。
ひっそりと片手でキャップを取り外す。
油性ペンだった。一度乾けば、擦っても水に入れても中々消えないというアレである。
「うん、そうだね、そうだね、急がないといけないね……」
「そうですそうです、遅刻は厳禁ですよ?」
微かに聞こえる、キュッキュキュッキュという妙な音が止むや否や、ニヤリと、楓はそこはかとない邪悪な笑顔を青年に向けた。
「そうだよね、そうだよね、和葉くん、急がないといけないよね?」
妙な異変に感づいた青年は肩が少しだけぴくりと動く。
「な、なんです?」
「いやさ、だからね、急がないといけないよね?和葉くん」
「ちょっ、駄目ですって先生の予定でしょ?」
肩に置かれている青年の手をよいしょと持ち上げて、件の紙を青年に突きつける。
「はて、誰の予定でしたっけ?」
「だから、先……生……の………………」
口をあんぐりと開けたままで、青年は動けなくなってしまった。
「さぁさぁ。読んでごらんよ和葉くん」
「今日の予定……」
「ちがうょぅ、その上に書かれている奴をだょぅ」
「か…………ず、はの……」
「ハイ、大きな声で?」
マナーモードの携帯電話より震える青年の体は、目測でマグニチュード8ぐらいである。
付近でプリンを作っていたのであれば、間違いなくプリンは不可思議な形成を保ったままで固まるであろう。ちなみに味は、芳醇な卵の風味と、濃厚なミルクの甘みに混じって、天井から落下してくるであろう微細なコンクリートが加わり、食べるたびにシャリシャリとしたシャーベットよりは少々ハードな味が展開される事は間違い無しである。
「うぅぅぅ」
青年は件の紙を凝視したままで、震えは一向に止まらない。彼が辛うじて持っている紙に書かれていたのは、〝今日の予定〟という文字。しかし、其れだけでは青年が震え、驚愕する事実は何処にも無い。だが、其の紙をよくよく見ると、〝今日の予定〟という文字の上部に、〝かずはの(ハート)〟と、可愛らしい文字が付け足されていた。しかもご丁寧にハート部分は丁寧に塗りつぶされていたりする。非常に細やかな気配りである。
だが。ハートを塗りつぶすのに使った黒色の油性ペンの所為か、毒々しいまでの色を発しているハートは、どこからどうみても脈打つ悪魔の心臓のようであったりする。
「かずはの(ハート)今日の予定……」
蚊の鳴くような声でぼそぼそと青年は呟き、ふらっと一回だけ足元が揺らいだ。
「よーくできましたー」
楓は喜色満面で青年にえいやと抱きつき、洗濯板のような何かをぐいぐい押し付けていた。
一方の青年は相変わらずの放心状態。唇から白い泡状の何かが出ているようだが、エマージェンシーな泡のような気がするのであまり追求はしない。
「和葉さん、お願いできますか?」
楓はうるうるとした眼で青年を見上げる。
「お、お、お願いを、請けたく、な、いんですが……」
青年は、風に吹かれれば何処かに吹き飛んでしまいそうな消え入る声で、かろうじて受け答えをする。
「そうですね、そうですね、詳しくは語れませんが、非常に痛い思いをするかもしれませんね?お願いを請けていただけなければ」
〝いただけなければ〟の〝ば〟にやたらと力が入っていた。洗濯板をぐいぐい押し付け抱きついたまま、チワワに見まがううるうるおめめのままで、楓は上司の権力をぶんぶん振り回し始めた。別名、脅迫である。
「……其れは精神的にですか?肉体的にですか?」
青年の聞いた問い。喜色満面の悪魔は更に歪みきった意地の悪い笑顔を晒し、地の底を木っ端微塵に帰すほどの威力を持つ鉄槌を下す。
「うーふーふー、どっちもだねっ」
にんまり笑顔の楓をよそに、青年は項垂れ、どこかやつれ始めていた。
「……否定は?」
「できません」
「肯定のみ?」
「ええ、成すがまま」
楓の手を解き、無言のままで青年は部屋の横に立てかけられている黒皮のケースを手に取る。
「……それでは……行ってきます」
足取りは蛇行するようにふらふらと。
「遅刻したら大変だよ? あ、あと、エリノア・クラインって人だから、依頼人
楓の声に反応した青年は項垂れたままで頷き、走り出す。神速でドアを開き、バタンと閉じる。一連の動きは全て項垂れたまま。非常に奇怪な姿ではあったが、彼に顔を上げるという元気は全くなかった。でも、行かなければならないという事実が青年を襲う。
残酷な事に、彼に味方をする人間は誰一人もいないのである。
青年が出発した数秒後、楓は急須に残っていた幾分温くなったお茶を注ぎ、ぐてーっとソファに身体を預けた。
「大丈夫かな、エリノア。ドジ踏んで和葉に話さなければいいんだけど……」
そうして、テーブルに置いた小説を再び手に取り再び読み始めた。
「……うーん、でも事務所に連れてくるだけだし、まぁいっか」


青年の名は速水和葉と言う。
年の頃は二十歳近く。背はそれほど高くなく、しかし極端に低いわけでもない。年中、彼のトレードマークである散切り頭に寝癖を一箇所生やしては、何が面白いのか、微笑を浮かべている。それらの容貌を一言で言い表せば〝優男〟になるであろう。しかしながら、笑顔の奥底には一筋の鋼線を張ったような固き信念を持っていたりもする。彼は誰にも言えぬ秘密を抱え、誰にも言えぬ行動基盤で動く、人に仇成す悪しき存在を律する代行者と呼ばれる存在である。現代科学が発達した今の世では異分子極まりない輩を構成する一人なのであった。
「うああああああん」
そんな彼は今、泣きながら、一心不乱にオフィス街を駆け抜けていた。