銀月ストリングス 第一章・狭い狭い極東の果てで

(前回内容は左側メニューから)

雨音はさめざめと、しかし、はっきりと聞こえる泣き声が辺りに響く。
全身をすっぽりと覆う黒色外套を纏った二つの影は、火柱から飛び出るや否や、全く同じ動作で懐に隠したナイフを投擲する。其の動作は一瞬。懐からナイフを取り出し、右に二本、左に一本持ち、人が見せるモノを投擲する時のような動作を見せずに、手首の返しだけで其れらを放つ。風を切り、雨を弾く。天から降り注ぐ重力に負ける事無く、最短距離で凶刃が宙を翔る。投擲された六つのナイフの軌跡上に二人の頭部、咽頭部、胸部が映った。標的にされた二人は、各々の体捌きで其れを避ける。和葉は右半身を後ろに逸らし、エリノアは身体全てを翻す、といった具合に。
「何ですかこいつら……」
「擬似素体、瑠璃の射手の使い魔です」
外套の隙間から伺えた影の手は、人間の其れとは完全に異なっていた。機械のような金属の塊のように見受けられ、スクラップ工場で排出された廃材を適当にくっつけたようなモノ、しかし、未だ顔を伺う事は叶わなかった。どういう理屈かは判らないが、外套を纏った部分は影のように真っ暗闇なのである。
雨音に混じり、硬質の金属音が周辺に響く。ギチギチ、という、油を差し忘れた金属の歯車が擦れるような音。耳障りな音に、和葉とエリノアは幾分顔をしかめる。
「ドイツでもこいつらが?」
二人から見て右に居る、擬似素体と呼ばれた影は、前に向けた跳躍により瞬時に二人に接近する。両手には既に取り出した二本のナイフ。地面すれすれの中空で、両の手を袈裟から薙ぐように放つナイフを振り下ろした。其れを和葉は左へ、エリノアは右へと翻し、其の一撃を避ける。
「ええ、八体ほど一気に。戦いは直ぐに終わってしまいましたが」
苦笑いを浮かべる、しかし、エリノアの険しい眼光は擬似素体を捕捉したまま。
「うあっ…………お疲れ様でした、エリノアさん」
和葉が軽口を叩くと同時に、近づいてきた方の擬似素体はエリノアのみに狙いを定め、下半身をギチギチ鳴らし、身を幾分屈めながら跳ねる。其の勢いのままで、未だ両の手にあるナイフを前に突き出し、頚動脈を標的とする。其の動きは牙を持つ猛禽の類を思わせるほどに獰猛、しかし、正確に人体の急所のみを狙ってくる様子には、どこか思考の欠片が見受けられた。
「はっ!」
猛烈な勢いで向かってきた影の持つ左のナイフが身に突き刺さるかどうかという際、エリノアは眼にも留まらぬ速さで跳躍した。見事なまでに空を切った影のナイフ。エリノアは自分の腰より低いところに設置された影の腕を基点にし、其れを上から押さえつつ、影の頭部を右のつま先で勢い良く真横に蹴り飛ばす。流れる体の勢いを殺さぬまま、両の踵で擬似素体の頭部に叩き込んだ。
ドレススーツから零れ落ちる艶かしいエリノアの細い脚は、美術品のような美しさを持っていた。しかし、其処から繰り出された、ドスン、という鈍い衝撃音は、美術品が纏う性質とは全くもって別物。エリノアの脚は、言わば余分な贅肉を削がれ引き締まった筋肉である。美しさの名に潜んだ性質は凶器。其の証拠、エリノアが繰り出した踵の一撃を喰らった擬似素体の頭部は、元の姿の判別がつかないほどバラバラに四散させていた。
ぬかるみの上、放射状に散らばる細かな鉄骨や螺子、そして頭部を覆う外套の一部。
彼女の放った踵の一撃は、音の派手さは無いものの、散弾銃を至近距離で放ったような威力を持っていた。其のカラクリは擬似素体の頭部に踵が接着するや否やの際に、ほんの少し回転が加えられていたためによる。角度にすれば四十五度。しかし、コンマ何秒かの間において繰り出された回転、加えて前に突き出した神速の踵は、擬似素体の頭部を打ち抜くには有り余る一撃であった。
攻撃を終えたエリノアは、軽業師のような身のこなしで中空でくるりと一回転し、地面に着地する。しかしそんな状態であってもエリノアは、天地がさかさまになった世界の中、相対する敵をしっかりと視界に収めていた。
首を失った擬似素体は、ぐらぐらと体を揺らせていた。しかし其れも刹那で終わる。地面に腰を落とす事無く、磐石な力を残したままで尚も屹立し、着地したエリノアに向かって手中のナイフを投擲した。標的は左上腕動脈と右大腿動脈付近。
「頭……じゃなかった。となると……胸?」
一人呟き、二つのナイフを地表にキスをするような形で倒れこみ、避ける。
耳に、ザザッ、と何かが走り寄ってくる音が入ってくるや否や、エリノアは両の手で地表を叩き、其の反動に加え、しなやかな体のバネ生かしては両の脚で屹立した。
そうして再び視界に入った擬似素体は、またも既に二本のナイフを握っていた。
(本当、どういう構造してるんだろう?)
迫る擬似素体は左手の中のナイフを突き出す、其れを手の甲で弾き、次いで繰り出される残った一方の手のナイフを手刀で弾き落とす。擬似素体の攻撃がひとまず終了したかと思えた其の時。エリノアは右の手に力を込め反撃に移る。途端に青白く光りだすエリノアの右掌。其れらを圧縮するように力強く握り込み、殴りかかる。しかし其の中で。擬似素体が見せた行為にエリノアは軽い驚きを浮かべ、そして次から次へとナイフを繰り出すカラクリを理解した。
(―――――成程、そういう事、か)
擬似素体は左に残るナイフを自分の腹部に突き刺す。一見すると、戦いの最中においては到底意味の無い自傷行為である。しかし、裏に潜む本旨は別のところにある。既に首を覆う外套はエリノアの一撃で破れ消えた。そして、今尚大部分を隠している腹部の外套を、擬似素体は己が身に突き刺したナイフを使い、大きく切り外し始めた。
露になった擬似素体の内部。切り外された外套から、空気に晒されるように擬似素体の腹部が見せたものは大量のナイフが作り上げた剣山。切っ先は全て前方に向けられ、其の量はエリノアの腹部を易々と突き刺せる量、否、突き刺しても有り余る量であった。目算でおよそ百余。
つまりはいくら投げても、尽きる事は今のところは無いのである。確かに、其の百余を投げつければナイフでの攻撃は繰り出せ無くなるであろう。しかし、其れだけあれば充分。普通に戦う上で、限りあるとは言え充分すぎるストックである。そうして残り百余の凶刃の全ては、自身を遮る外套が無くなった今、飛び放たれる其の時を待ちわびていた。そうして、相変わらずギチギチと音を鳴らす、ナイフ達の主人である擬似素体が其れを許可する。
擬似素体が左手親指を動かし、カチンと音が鳴る。其れは撃鉄が落ちた事を示す。瞬時に擬似素体は身体を弓のような形に反らす。同時に、バチン、と何か強靭なゴムを断ち切った時のような音が放たれた。其の音に呼応するように、銀の凶刃がエリノアの腹部めがけて一斉に飛び立つ。
雨の雫がナイフに触れる事は無い。
其れだけ高速であり、其れだけ必殺の距離なのである。
しかし、当のエリノアは、これが今際になるかもしれないというのに。
「―――――冷光」
拳を突き出した其の姿のままで、蔑むように、哀れむように、擬似素体の放つ百余の攻撃を一瞥し、密かに嘲笑する。たったの其れだけなのですか?と言わんばかりに。
「―――――千華ッ!」
放つ声は世界を構成する大気と自身の奥底に語ったもの。煌々と青白く光る拳を突き出し、開く。そして刹那、エリノアの前方に百余の凶刃に相対するよう、キラリと輝く氷の渦が姿を成す。其れは小規模なブリザードというには生易しすぎる。言うなれば、細く、鋭く、研ぎ澄まされた避雷針の最先端を思わせる、氷が形作った千の槍である。其れらは紛れも無く一つ一つが必殺の一撃。突き刺された後に残るのは、凍てつく狂風に打ち破れた残骸のみ。其処に命は凍てつき、其の者を構成する容貌は崩れ落ちる。
百余のナイフの切っ先と、千の氷槍の切っ先が相対する。途端に鼓膜を刺激する、まるで削岩機が巨岩を削り取るような複数、否、数え切れない程に多い騒音が周囲に響く。
しかし、何処の世に蟻が象を倒せる道理があるのだろうか。
結果、早々に百余のナイフは悉く打ち落とされ、粉砕され、中には槍に触れた途端に其の勢いを失い、中空で一気に凍結するモノもあった。エリノアにたったの一本も触れる事無く百余の攻撃は尽きる。尽きた後は一方的であった。未だ大多数を残している氷槍は須らく擬似素体の腹部に隙間なく突き刺さり、その傷口から、まるで病巣が健康体を蝕んでいくように凍傷が広がっていく。ピシピシという微かな音を発しながら、天から降り注ぐ雨をも巻き込み、擬似素体は氷塊へと変貌していった。
「……私を倒したかったら、千本以上は用意して下さいね」
氷槍には自身が持つ鋭さ故の攻撃力の他に、別の力が備わっている。其れは突き刺した者の分子振動を限りなく零に近づけさせ、結果として、絶対零度付近まで急速に下がった体温のためにより生命活動が停止するというモノ。生物であろうが無かろうが、分子振動を下げられてしまえば其の動きは完全に停止し、周囲の水分を含み文字通りに凍結する。つまり数の問題ではないのだ。一本でも刺されば其処で命は尽き果てる事は必至。
「もっとも、それでも負ける気はしませんけど」
密かな微笑を浮かべるエリノアは前方の氷塊を見る。そして、人差し指でそっと其れに触れ、仄かな力を加える。バランスを崩した氷塊はごろんとぬかるみの上に仰向けの形で寝そべった。エリノアは、ふと、傍らにあった一本のナイフを手に取る。そして。
「……さようなら、使い魔さん」
愛しい恋人に別れを告げるに似た、どこか寂寞とした眼差しを氷塊に向け、其の中心にナイフを思いっきり突き刺した。氷塊は其れを弾く事無く受け入れる。途端、ガラガラと音を立て氷塊は砕け散り、空気中に雲散するように擬似素体の痕跡は跡形もなく消えていった。
「……っと、和葉さんは?」
弾き飛ばした擬似素体の頭部の残骸も、外套の一部すらも消えていく。そんな様子にエリノアは一欠片の疑問も抱く事無く、〝其れはそういうものなんだ〟と認識し、和葉を捜した。
そうして発見したのは、和葉と残ったもう一方の擬似素体が戦っている姿であった。
「和葉さん危なっ……」
しかしどんな幻だったのか。
「えっ? な、何なの」
エリノアの眼に映った一つの現象は。
「今の……」
以降、エリノアは口を噤み、一切の声を上げる事は無くなった。非現実の中で日常を生きるエリノアにとっても、眼前で起きた出来事はエリノアが培った知識の範疇を大きく逸脱している事だった。そして次の瞬間には勝負は和葉の圧倒的な勝利で終わっていた。
エリノアは、自身の眼に映った蜃気楼が如くの現象を未だ信じられず、和葉の勝利に感嘆を表す事無く、ただただ呆然と和葉を見ることしか出来なかった。


余談になるが、戦いにおいて必要なのは〝先の先〟を取る事、もしくは〝後の先〟を取る事である。前者は、自ら攻め立て先手を取り、敵を仕留めるとする動き。後者は、敵が攻めてきたのを確実に守り、其の中で反撃を加え、仕留めるという動きである。
しかし、〝先の先〟も〝後の先〟も、其れらを完遂するためには相手を観察すると言う事が肝要になる。つまり、考え無しに攻撃すれば、最悪の場合、一撃の元に屠られ屠り返されてしまう恐れがある。『あの時こうしてれば』という言葉は、命を賭けた戦いにおいては其の存在は許されない。生きるか死ぬか。戦いの終着に待っているのは其の二つの答えのみである。其のため、観察が肝要なのだ。相手の動作、殺気、癖、其れらを全て皆読む事が必要になってくる。己が命を失わないように、又、完璧なる一撃を企てるために。
では観察手法はどうすればいいのだろうか。
戦闘経験の無い一般人が一朝一夕で会得する訳ではないが、数ある手法の中でも一番手軽なものは〝目付け〟であろう。相手を見る、というのは、何も一箇所を凝らしてみる事だけでは無い。注視するではなく、限りなく全体をぼんやりと伺い見るようにせねばなら無い。そうする事で、相手が隠している布石の意を読み取る事が出来るようになり、一挙一動を観察する事ができるようになる。とはいえ、一撃目は上手く行っても、二撃、三撃目となると話は違う。目まぐるしく変化する状態と戦況に、易々と対応できるまでに鍛錬せねば到底無理な話である。
しかし、エリノアは其れを実行できる側の存在である。彼女は先程の戦いにおいて実践し、見事なまでに擬似素体の〝先の先〟、〝後の先〟を取り勝利した。それに彼女は、戦いを終結する事は無かったものの、擬似素体を八体同時に相手することができるほどの手練である。そんな彼女にとっては一瞬でも視界に入るだけで充分すぎる。
今し方エリノアの眼に映っていた和葉は左手に黒鞘を携えたままの姿で跳躍していた。そこに、エリノアに見せた攻撃同様、擬似素体は百余のナイフを放とうとしていたのである。
両の手のナイフを自身の腹部に突き刺し外套を切り剥ぐ。
禍々しい輝きを見せる銀の凶刃、そして、擬似素体が左手親指を鳴らしては撃鉄が落ちる。エリノアが声を上げたのは其の瞬間。中空では身動きが取れない事への危惧を声にしたのだ。
そして、不可思議な現象が起きたのも、一秒にも満たない、限りなく零に近いこの瞬間。
距離や重力という、世界に存在するものは悉く其の影響を受けるであろう枷を、見事なまでに無視した現象が起きた。
「な、何なの、今の……」
エリノアが目撃した現象とは空間転移。其れは現代科学でも、魔術と呼ばれる古の法をもってしても未だ到達出来ない、現象の一つ。A地点からB地点への移動を行う際、人、ないし確固たる存在を持つ物質は、同一空間上で距離という概念を辿り目的地に到着する。
だが、もし。
其の概念が崩れるのであれば、距離と言う制約は意味を成さないのではなかろうか。何らかの力でもって空間を捻じ曲げる事により、その間に存在する距離を零にする。
荒唐無稽すぎる所業は正に奇蹟。しかし和葉は、事も無げに其れを行った。
中空から光速が如くで移動した和葉は擬似素体の背後に現れる。漲る力を解き放ち、そして、息をつく暇も無く抜刀。刹那に次ぐ刹那、和葉の繰り出した一撃さえも光速の其れであった。
天啓・刹那跳躍。
其れが和葉が思うがままに、光速、否、光よりも速く動いた現象の名。
其の正体は遠き過去よりもたらされた、和葉の内なる内、魂に潜む守護の欠片である。


百余のナイフは全て、和葉の其れまで居た空間に向けて発射された。見事なまでの放物線を描き、ナイフは遠くの木々の海に埋没しては消えていく。
「いくぞ――っ!」
声は何処から聞こえるものなのか。エリノアの耳に、和葉の声が入ってくる。中空には既に居ない。エリノアの視界には、標的を失った擬似素体の姿のみしか映らない。
其の刹那、和葉の腕が始動し、擬似素体の背後から雷光が如く一閃が姿を現す。
剣速で激しく大気を摩擦し発生させた紫電を巻き込み、稲光が天を駆け巡る時のよう荒々しい轟きを放ち、和葉の一撃が振り下ろされる。しかし其れは、頭部から下半身まで一気に振り下ろしただけの凡庸なる軌道を示す一撃。だが見せた速度は尋常ではない。
故に雷撃。
発生した紫電が本物であり、そして、放たれた一撃さえも、軌道さえも、直進する事に何の躊躇いを見せぬ其れは雷電以外の何物でもない。
ドガン、というけたたましい爆音が周囲を襲う。擬似素体の下腹部を貫き通った後、和葉はぴたりと剣を止めていた。しかし、尚も下へ下へと動きを見せる紫電と剣圧は地面に接着するや否や、巨大な衝撃波を生み出し、そして強烈な爆音を発した。地面に小規模なクレーターが出来るや否や、湿った土と擬似素体の切断面から捥ぎ取った鉄骨や螺子の粉塵が舞い上がる。其の中、粉塵とは別々の方向へと引き剥がされた擬似素体の互いの半身は、青白い電気を発しながら、遠く遠くの地面に高速で回転しながら飛び跳ねていった。
やがて、中空にて切断面から各々の半身は炎上する。其の勢いが消え去り、ようやく着地した頃には原形が判別付かないほどの真っ黒な燃え滓と化していた。
「ふぅ…………おーわりっ」
エリノアが認識したのは、和葉の剣戟が貫き通った一筋の軌跡、直後に発生した巻き上がった粉塵、そして別々の方向に飛び出した燃え盛る何か。
瞬く間に繰り広げられた、非現実の中に生きる者にとっても非現実な一連の出来事にエリノアは呆然と立ち尽くす以外何も出来なかった。やがて、粉塵も雨の雫のためか程なく収まり、向こう側から和葉がひょっこりと顔を見せる。刀は納刀され、既に左手に携えていた。表情は何時もと変わらぬ、あの笑み。まるで、何事も無かったようなそんな笑み。
「さてさて、事務所に行きましょうエリノアさん。早く行かないと風邪引いちゃいますよ」
エリノアは目の前に居る青年が和葉だと判別が付かなかった。
「どうしました? エリノアさん」
微動だにせず立ち尽くしたままの姿で、和葉をぼんやりと見ている。
「……そ、そうですね」
辛うじて出たのはそんな短い言葉。其れだけエリノアにとっては先程起こった現象が不可解極まりないものであったのだ。しかし、彼女がそういう態度を取る原因は其れだけではない。
「では、行きましょうか?」
ふと、一筋の光が天から降り注ぐ。雨は小雨。分厚かった雲は何時しかとぎれとぎれになり太陽が何時もの顔を見せ始めた。そして其の途切れた雲の真下、太陽の光を背にするように和葉は立っていた。光が和葉を覆う。雫を纏う和葉の衣服と髪が爛々と輝き出した。
すると。
「ぷっ……。あはははははは」
堪えきれなくなった笑いを一気に放つように、エリノアは顔を伏せ、腹を抱えて大きな声で笑い出した。
「どうしたんです? エリノアさん……」
いきなり笑い出したエリノアに仄かな嫌疑を抱きつつ、和葉はエリノアをまじまじと見る。伏せた顔を覗き込むよう下からぐいっと。
「か、和葉さん……。あははは、駄目、こっち見ないでっ、あはははははっ」
和葉と眼が合ったエリノアは尚も笑う。
「な、なんで笑うんですか? エリノアさん!」
ぷぅ、と口をほんの少し膨らましてエリノアに問う。しかし、エリノアは笑うばかりで和葉の問いを聞こうとはしなかった。
「……どうしたんです? 何か俺、変ですか?」
「……ご、ごめんなさい和葉さん。確かに自然と言えば自然です。雷の一撃を至近距離で繰り出せば、確かにこうならざるおえないと言うか、何と言うか」
彼女は何を言ってるのだろう、と和葉は首を傾げる。そうして幾秒か考えた後。
「うーん。まぁいいっか」
の一言で全てを済ませた。仕事以外は深く物事を考えない、というのは和葉が事務所で過ごすうちに培った悪癖である。しかし、過去に深く物事を考えてしまったため、胃に穴が開いてしまった経験があるため、仕方ないといえば仕方ない事なのでもあった。
「さぁて、事務所に行きましょう」
「そうですね、和葉さん」
と、エリノアは普通に反応するものの、しかし、未だ和葉の眼を見て話そうとはしなかった。
緑の浮島を抜け、南側の太い路地を浮島から背にするように数分歩き、細い路地に差し掛かる。そうして、オフィス街に戻ってきた和葉はエリノアと肩を揃えて雨上がりのアスファルトを歩いていた。
「あ、大丈夫です。着替えは事務所に送りましたから、今頃、楓が受け取ってるはずですよ」
「それなら良かった。風邪ひくと大変ですからね」
と、他愛の無い会話を交わしつつ、着々と事務所に向かっていたのだ。あれからエリノアは笑わなくなった。とはいえ、急に無愛想になったという訳ではない。急に笑う事がなくなったという事だ。彼女が見せる表情は公園で見せた時のよう。優雅な挙措と、凛々しいあの眼である。だが。
(な、なんでだろう?)
一方の和葉はというと公園での疑問が再燃してしまい、会話を交わすものの心ここに有らずな状態であった。
(な、なんでこっちを見ないんだろう……)
公園のベンチで話した時、エリノアは和葉の眼を見て話していた。しかし、今は全く自分の方を見ようとしない。どうも気になってしまうそんなエリノアの態度に、和葉はエリノアに聞こえないようなか細い声をぽそぽそと漏らし、考えてみる。
(……こっち見ないで、こっち見ないで、って事は……顔に、何か?)
和葉は顔を手でぺちぺちと触れてみた。
(ん?)
……すると、額付近に何かが付着していた。和葉は其れを取り両の眼でまじまじと見てみると、正体はチューインガムを包む銀紙であった。
(……そっか)
和葉は今までの自分の格好を想像してみる。眉間のど真ん中に、インドの女性が額につけるきらきらとした装飾品(ビンディー)を付けたような状態になって話をしていたのか、と。
(……だから笑ったのかな?)
和葉は其れをくしゃくしゃと丸め込みポケットの中に突っ込んだ。
(ふむ、これで大丈夫かな)
一人納得し、和葉は再燃した疑問を鎮火させ、小さな水溜りをぴょんと飛び越えた。
しかし、和葉は気づいていないのだった。自分の身に起こった大きすぎる変化を……。


それから延々と続くアスファルトを真っ直ぐ、ひたすら真っ直ぐ歩いていくと、事務所の入っているレトロビルが眼に入ってきた。
「そういえば、エリノアさんはどうして連絡したんです? 楓さんに」
そんな最中、何気ないように言った和葉の疑問は冷静に考えればもっともであった。つまり、エリノアがドイツから日本に来たのは〝瑠璃の射手〟を倒すためである。しかし、楓に〝瑠璃の射手〟の情報すら与えたくない、というエリノアが、当の本人に其の事実を伝える訳が無い。だとしたら、何故、彼女は楓に会おうと連絡をとったのだろう、と。
「その、なんでしょう。其れは別、の用件で、す。はい」
疑問をぶつけられたエリノアは、やたらと声が途切れ途切れになっていた。エリノアの其の様子には怪しさ以外に感じられるものは何も無い。何となくではあるが、謀計の香りが迸っているような気がしないでもない。
「もしかして、聞いちゃまずいような……事ですか?」
控えめに聞いた和葉の問いを、申し訳なさそうな顔でエリノアは応える。
「……うーんと、そうしてもらるとありがたいです。ごめんなさいね、和葉さん」
「いえいえ」
和葉は思案する。何でだろう、と。しかし、本人がこれ以上触れるなと言った事柄には触れる事はできない。腕組をし、ひとり言をぽつりぽつり漏らす和葉を見て、今度はエリノアがおどおどしながらある事を聞く。
「あの、一つ聞きたい事があるんですがよろしいですか」
「ええ、どうぞ」
「和葉さんの知り合いに、〝さくら〟さんという方はいらっしゃいます?」
「えっ、エリノアさんはさくらさんを知ってるんですか?」
「いえ、私は直接知らないんですけど……。そっか、そう言う事か……成程」
「?」
エリノアが腕を組み、一人納得している様子を見て、和葉は首を傾げる。しかし、そんな質問を軽く聞き流して楓に連絡を取った事を一人思考しはじめた。途中から互いに無言になった二人だが、程なくしてレトロビルに到着した。
「さぁどうぞ、エリノアさん」
「あ、はい。どうもありがとうございます」
事務所のドアを開いた和葉はエリノアを先に入れる。そうして、事務所を出た時とほぼ同じ状態で楓はソファに腰を下ろし、別のサスペンス小説を読んでいた。火を点けた煙草をくわえながら、である。
「久しぶり、楓」
胸の手前で右手を挙げて、簡単な挨拶をするエリノア。
「遅いわよエリノア。一体何してたの……ってずぶ濡れじゃない! どうしたの、一体?」
未だ乾ききれていない体はずぶ濡れのまま、しかし、エリノアは極々普通に、先刻あった出来事をあっさりと無視しごまかす。
「……まぁ、色々とあったのよ」
「そういう事です、はい。何もやましい事はないですよ?」
和葉が扉を後ろ手で閉じ、エリノアの言葉に同調する。
「和葉は黙ってて……って、えっ? ……あ、貴方、か、和葉、よね?」
事務所の扉を付近にいた和葉に眼を向けた途端、楓は口をあんぐりと開けっ広げ、くわえていた煙草をぽとりと落とした。そんな楓の様子をエリノアは声を出さずに密かに笑う。
「はい、一応速水和葉をやってますけど……」
「イメチェンしたの?」
「した覚えはないですよー」
何言ってるんですか先生、えへへ、と笑う和葉をよそに、無言のままで楓は落とした煙草を拾い灰皿に押し付ける。先端の熱が急速に失っていくのを確認した楓は、和葉に歩み寄り、其の手をぎゅっと握り締める。
「……そっか、うん、分かった。分かったから、今すぐ洗面所に行って鏡見てみなさい」
「……な、なんでです?」
「自分をしっかり……ね。鏡に映った姿が真実よ……」
手を解き、和葉の背中を洗面所の方向に向けてぽんと押す。前につんのめる形になった和葉はバランスを崩しながら数歩だけ前に歩く。そして、首を傾げながら洗面所に向かった。
和葉が洗面所に消えるや否や、楓は俯き、ソファに腰を下ろした。頭を抱えては唸る楓の様子に、エリノアは微笑を浮かべていた。
「もぅ、あんなの和葉じゃない……」
「そう? 私はソウルフルで結構かわいいと思うけどな」
「どこをどう見ればそう言えるのよ! ソウルフル過ぎるわよ!」
くわっ、と眼を見開きエリノアにつっかかる。しかし、無意味な問い詰めだと理解した楓は、勢いを失い、溜息をこぼした。
「ねぇ、エリノア。一体何があったの?」
「何も無かったわよ? まぁ、しいて言えば雷が落ちた、ってところかしら。女の子の気持ちに見向きもしない罰よね、きっと」
エリノアは微笑を浮かべながら、ソファに掛けられたタオルを手に取り、水気が纏う銀髪を拭く。楓は頬を真っ赤にし、エリノアの言葉を聴かなかったふりを決め込んでいた。
「でも大丈夫よ。和葉さんはきっと楓を選ぶわ」
ふと、振り返り、うずくまっていた顔をもたげてはエリノアに向き直る。
「……何其れ。もしかして〝千夜託宣〟の思し召し? もし、そうだったら怒るわよ」
睨みにも似た鋭い眼をエリノアに向ける。しかしエリノアはそんな楓の様子をさらりと受け流し、微笑を崩さない。
「違うわ楓。エリノア・クラインの……。そう、イチ女の子としての勘って所ね」
「……そう? ならいいわ……」
楓は、ぶぅ、と頬を膨らませてソファに再び腰を戻す。ぽりぽりと頬を掻き、何事も無かったようにテーブルに無造作に置かれていたサスペンス小説を手に取る。静けさが事務所内を覆う。聞こえるのは楓がページを捲る微かな音と、エリノアの髪とタオルが擦れる音のみ。そんな中、居心地が悪くなった所為であろうか。楓がぽそぽそと口を開く。
「タオルは適当なところに置いといて。私が後で洗濯しておくから」
「ありがとう、楓」
「いいわ。気にしないで。それと……」
ほんの少しの躊躇が楓から発せられる。故に、沈黙。意を決した楓はソファに深く沈みこみ、しかし、振り向かぬままの姿で、気恥ずかしさを押し殺し、か細いながらもはっきりとエリノアに聞こえる声で。
「……また会えて嬉しいわ」
とだけ呟いた。そんな楓の言葉がエリノアの耳に届くや否や、彼女の表情は瞬く間に優しく、穏やかになる。
「ええ、私もよ。楓」
エリノアはエリノアで楓に負けず劣らぬ短い言葉。
しかし、二人にとっては其れで充分。寧ろ、其れ以上の言葉は必要なかった。
赤茶けた窓から太陽光があふれ出す。天を覆う分厚い雲は当に存在を四散させていた。雨は完全に上がり、じきに夕暮れの世界が広がるのだろう。そうして、やがて眠りにつき、今日という一日が終わりを告げる。しかし、今はまだ。あと少しだけでいいから、交わした言葉の温かさの余韻につかっていたいと言うかのよう。楓とエリノアは照らし合わせたように、優しさ溢れる笑みを浮かべていた。


で、一方其の頃、洗面所では。
「いゃぁぁぁぁ!」
怒号というよりは悲鳴に近い和葉の声が発せられていた。
斜光で眩しく照らし出された、眼を開けるにも一苦労な洗面所。其の中、壁に立てかけられていた鏡の前に和葉は呆然と立ち尽くしていた。
「何でっ? 何でっ?」
疑問に次ぐ疑問。というか、疑問しか出てこない。鏡に反射する和葉の容貌はどこからどうみてものソウルフル。其れは先の戦いにおいて、和葉が繰り出した一撃の代償。雷撃の勢いは何も擬似素体を貫き通すだけではなかったのだ。
「どうしてっ? どうしてっ?」
落雷する際に迸る電力というのは概算およそ九十メガワット。熱に至っては二万℃付近まで達する。つまりだ。生身の人間だったら生きているという事でさえ奇蹟なのである。とはいっても和葉は代行者という胡散臭い存在。実は、雷の一つや二つ喰らっても死にやしないのである。しかし其れは、あくまで機能上だけのこと。例え髪の毛が毛玉というか鳥の巣というか、ボンバーなヘッドになったとしても、生きていられれば機能上全く問題無し。
「……な、なんでなのさ」
鏡に映る和葉の姿はファンキー星人。何処が寝癖だか判別付かぬその頭は、触れると軽い弾力を感じる。和葉の頭は今、R&Bをこよなく愛する者の証拠である、アフロヘアーなのであった。鏡に映る真実という名の残酷描写を前にして、和葉の脚腰は急速に力を失い、ふらふらと揺れ始めた。無言のままで洗面所の床に横たわりぐったりと息を吐き出す。斜光眩しく、頭はもっさり。たった一、二時間の内に、変貌しきった自分の姿に落胆を覚え、和葉は何も言わず、そっと眼を閉じた。
頬が濡れていたかどうかは、定かではない。