銀月ストリングス 第一章・狭い狭い極東の果てで

辺りを包む真っ暗闇から逃げるように、一台の夜行バスがトンネルに足を入れた。
オレンジ色に染まるトンネル内部はナトリウムランプが禍々しいまでの光を見せ、昼なのか夜なのか判別のつかぬ世界を醸し出している。密かに鳴らしている深夜ラジオに耳を傾け、運転手はあくびを噛み殺しつつ目的地へ向かう。迅速に、しかし、安全にである。
煌々と光るオレンジの光には既に慣れた。バス会社に勤め始めた頃、運転手の彼は其れがあまり好きではなかった。経路によってはオレンジの光が断続的に続き、眼が、というよりは頭全体がおかしくなりそうだったのだ。夜中は特に、である。暗闇を走り、そしてオレンジの世界。目的地に着くまでに幾度と無く繰り返すたび、ナトリウムランプが自分を違う世界に連れて逝く走馬灯のように見えることもしばしばあった。何となく、朧気にではあったが、非常に危うい気持ちにさせられたのだ。
頭に浮かぶ多くの事は悲惨な事故である。自分を含めたバス内部の全員が原型を留める事の無いような出来事。恐らく、普通に、極々安全に、運転しているのであれば非常に稀な出来事なのだろう。とはいえ、悲しいことに可能性は零とはいえない。
そんな事を考えながら運転する。到底ありえない稀な出来事に怯え、目的地に着くたび安堵し長いため息を放つ。そうして再び仕事へと。同じように暗闇とオレンジの世界が支配する起伏の無い平坦な長い旅路を駆けていく。
しかし、緊張と安堵、安堵と緊張の繰り返しの毎日を続けていると、不思議な事に何時しかそんな事も考えなくなった。其れは〝慣れ〟というモノなのだろうか、其れとも〝麻痺〟というモノなのだろうか。
結局の所、彼は二十年も夜行バスの運転手という仕事を続けているのだが、一回も事故を起こした事が無い。彼は己を振り返るたび、あの頃の事を笑い話に仕立て上げる。何であんなにビクビクしてたんだろうな、と。
事故が起きたら其れは其れでいい。自分が死んでも特に思うことは無い。だってそうだろう、現に事故は起きていないのだ。となれば、疑心暗鬼になって運転するよりも、あずかり知らぬ出来事は自分には関係のないと開き直ってしまえばいい。
そう、意識を変えてみたら案外楽だった。何時しか、彼の心に常に浮かび上がっていた危うい気持ちは鳴りを潜め、悠々と仕事に臨む事ができるようになった。今となってはラジオを持ち込んで、パーソナリティのトークに密かな笑いを浮かべるまでに至った。だが、かといって、運転に支障をきたすまでに傾聴してはいない。運転は安全に、心にはゆとりを、である。
そうして今夜も暗闇とオレンジの世界を突っ走る。
パーソナリティのトーク中に無機質な音が響いた。其れは時刻を知らせる時報の音。現在時刻は深夜二時、夜行バスはオレンジを抜け再び暗闇に足を入れた。


ふと、気になる事があった。ハンドルを握る彼の頭に疑問が浮ぶ。
トンネルを飛び出した先は、ぶあつい雲が夜空に広がる月明かりさえ見え無い漆黒の闇の世界。だが、其の中で、前方を照らすライトを超えるほどに、遥か遠くの暗闇が真昼のように様に輝いては消えを繰り返していた。
(なんだ?事故でも起きたのか?…………其れとも、超常……現象?)
しかし、其れだけだった。
なにせ、自分とは関係の無い事なのだ。今、自分がしなければいけないことは、乗客を安全に目的地へと客を運ぶという事だけ。暗闇に光が溢れていたとしても、自分の仕事に支障をきたさなければどうでもいい。例え悲惨な事故が起きていたとしても其れだけ。自分の運転を更に気を引き締めなければ、と考える材料になるだけである。
彼は一時でも超常現象と浮んだ考えに、苦笑し、ハンドルを握る力を仄かに強くしてはアクセルを踏む。
そうして何分経ったのだろうか。目の前にある長いカーブを抜ければ、彼が先ほどの光を見た場所に近づきつつあった。
山の陵に挟まれた所に道路が敷かれているためか、道路脇の視界というのは非常に狭い。とはいえ、運転するにはそんな事あまり意味が無かった。敷かれている道路に沿って行けば良いだけの事なのだから。
深夜ラジオのパーソナリティが曲の紹介をする。程なくして、あまり耳にした事の無い声のポップスが流れてきた。どうやら次週ゲストとして来るバンドの曲らしい。彼は適当に曲に合わせて人差指でリズムを取りながら、気持ちよくバスを走らせていた。
先ほどの光景は既に頭には無い。しかし、否が応でも思い浮かぶ事になる。長いカーブはもう少しで終点に近づく。


「…………なんだよ、これ」
立ち昇る、漆黒の闇を焦がす一本の紅蓮の炎。其れに当てられて、分離帯にひたすら延々と続くガードレールも所々融けては落ちる。最早、原型を留めていない車と人の数々は、無残なまでの燃え滓となり、逃げることも叶わないままの姿で黒色のオブジェと化していた。其の後の運命を忌避するが如く、本体から逃げてきたタイヤがころころと停車したバスに向かって転がってきた。
カーブ先にあったのは、事故や想像し得る超常現象の類の範疇から逸脱した外れた世界。一言で表すなら、焦土である。生きとし生けるものはおろか、生物では非ぬ物でさえ姿形を残さぬ灼熱の世界が其処にはあった。
窓を開けているわけでもないのにやたらとゴムの焦げるような匂いが車内に充満し始める。
恐らくタイヤが正体不明の炎で溶かされた時に発した匂いだろう。しかし、車外に出て、自身の嗅覚で確かめた訳ではない。外れた世界に足を踏み入れる事に彼は躊躇った。数メートル先にある、燃え滓となった車内に残る黒いヒトガタの発する匂いとは思いたくは無かった。
轟音が車内を襲う。夜空から振り落ちる竜巻が如くの赤き光が、対向車線側を走る乗用車に接触する。其れと同時に響く鼓膜が破れそうなほどのけたたましい爆発音と共に、乗用車は一瞬にして黒焦げになる。
そうして眼を覚ました多くの乗客は、彼と同様に車外の光景に驚愕する。しかし、悲しい事に其れは一瞬。バスの運転手、並びに乗客の皆が気づいていなかった。目の前に広がってる光景は、自分たちを来賓とした劇では無いという事を。
キィン、という甲高い音と共に、黒い空からバスに向かって一本の赤き鉄槌が降り注ぐ。其れは映画でしか見る事の無いような巨大な竜巻の類であった。触れるもの皆巻き上げ、そして、切り刻む。しかし、この赤い竜巻は何処か性質が違う。血のようにべっとりとした赤き色を持つ其れは、一切の情を棄てた非道なまでの平等を重んじる赤き光。触れるもの皆、生物・無生物分け隔て無く悉く焼き尽くす。
頭上から降り注がれた風切音は己が弔祭への誘い。
黄泉路に旅立つ際の映像は、悉く赤かった。


ホウホウと、頭上にある暗闇の何処かにいるであろう梟が密かに囀っていた。空一面を覆う曇天の夜空はやたらと暗い。星空も見えず、もちろんの事、月明かりも見えず。しかし其の中で、一欠片の明かりも持たず鬱蒼と茂る樹木の背後にひっそりと、しかし、醸す表情は豪胆なまでの悠然を持つ黒色の外套を纏う男が立っていた。男の崖下に広がるのは長く延々と続く人工物。闇には似つかわしくない赤い光が零れる場所である。
「チッ……誤差が酷い」
男は忌々しげに口を歪め、鷹の様な鋭い目で睨む。ふと、右の指を離し矢を放った。
「……駄目だ、左にずれた」
しかし、不思議な事に。
「〝射手〟の銘も返上せねばならんな……」
男は空手である。左手に弩を持ち、右手に矢を引く。しかし、其れは動作のみである。実際、男が持っているのは何も無い。
「これで……」
男が照準を絞り、そして放った想像の矢の延長線上にある乗り物が煌々と赤く燃える火柱を上げ、瞬く間に燃え尽きてしまう。男の手には何も無い。しかし、燃え上がる現象が確実に存在するのであれば、それは想像でも空想の類ではなく男がそういう矢を放ったという事であろう。
「最後だ」
男は照準を長方形のレンガのような乗り物に合わせ、そして右手を離す。
ピン、という微かな音が梟の囀りに混じり、しかし、はっきりと確実に何かを放つ音が聞こえた。
刹那、男の右手から一筋の淡い光が放たれる。暗闇だからこそ微かに見える絹糸のような其れは、張り詰めたまま、真っ直ぐ、勢い良く、阻む樹木の幹を通り抜け、レンガのような乗り物の間中に突き刺さる。
途端、一際明るい火柱が上がった。
「ふはは、上出来だ……擬骸もなかなか悪くない」
奥底に隠匿していた思いが零れてしまった。男は、ため息を放ち笑みを噛み殺す。
そうして、すっと闇に紛れるように姿を消す。
足音一つ聞こえない、実態のない幽鬼のような足運びで。
「待っていろ、転生霊珠……」