銀月ストリングス 序幕閑話・原初

彼の名は誰も記憶しておらず、また、記録にも残らぬ古き物語故、彼は〝彼〟という名称を使い、語るとしよう。
彼は、稀代の代行者、並びにその他代行者と比べれば、心技体どれもが平凡な存在であった。唯一他の代行者より突出していると言えるのは、誰にでも分け隔てなく注げる慈愛というものぐらい。戦いにおいて才気を感じさせる事は無く、故に、他の代行者からは特に敬愛の念を抱かれるような事は特に無かった。
しかし、彼がある朝の目覚めと共に、真理に目覚める事となる。まどろみから抜け切れぬ頭に浮かぶのは、螺旋を彩る世界の仕組み、人類の過去と不確定要素を精査した複数の行き着く先、上位高等魔術詠唱の威力減衰無し二段階簡略化方法、〝殻棄ての民〟への近接格闘術の条件付き優位性等、数え上げればきりが無い程の膨大な知識であった。其れは彼が現世において知り得た知識ではなく、転生を繰り返した彼の魂に刻み付けられた知識を発掘したのである。
神の見えざる手腕によるものなのか、悪魔の甘き誘いなのか。
何の前触れも無く起きた現象は、彼が自身に特殊な魔術を施した訳ではない。きっかけは何も無く、言える事は、突如として彼に溢れたモノは理由が付かぬ不可思議な現象という事のみ。其れ以上に意味は無く、ただただ其れだけなのである。
そうしたある日、彼の手により発動させたモノは稀代の代行者を驚愕させる事となる。彼は溢れ出でた知識を紡ぎ合わせ、荒唐無稽な魔術式を組み上げては其れを発現させた。魔術の名は創世。大気に紛れ潜む魔力を自身の魔力に還元する奇蹟である。其れまで代行者が使用していた魔術と言うのは自身の魔力を燃料とした方法のみであった。そのため彼は、膨大な、ほぼ無限ともいえる魔力を手に入れる事となる。神に見まがう程の力の奔流を発現できるようになった彼は、やがて万能の名を冠する事となるのであった。
しかし、彼は相変わらずのままであった。自身に生まれた特殊な力に溺れ、驕る事無く、其れまでと同じように人々と接しにこやかな表情を浮かべる。そんな姿に、彼と肩を並べる代行者達は、確かに幾ばくかの戸惑いはあったかもしれないが、彼を一目置くようになっていった。しかし、稀代の代行者にとっては、それは非常に面白くない事であり、忌避したい現実の一つであった。


代行者とは神に取って代わり、悪しき者が地上にもたらす災厄を防ぎ、其れらを打破する者たちの総称である。言うまでも無く、彼もまた其の信念に違える事無く〝殻棄ての民〟と呼ばれる人とは一線を画す災厄を引き起こす存在を滅すために駆けていく。
彼が万能の名を冠した後の事、ある時、稀代の代行者は彼に命を下す。当時、殻棄ての民の大多数が蠢く一番危険な地に彼を派遣したのである。
稀代の代行者にとっては、自分たち以外の者が自分たちを遥かに凌駕した力を持つ事に不安に思っていた。しかしながら、殻棄ての民もまた脅威だった。であれば。彼を一人で死地に赴かせ、殻棄ての民の一部でも滅ぼせれば良し。例え彼が何も出来ぬまま殺される事となっても、あくまで大義名分の下の事、彼が増長し一人で赴いたという筋書きを作れば問題無し。両者が力尽きてしまえば、尚良し。
しかし、稀代の代行者の謀計とは裏腹に、戦果は素晴らしいものであった。彼は殻棄ての民の大多数を一人で滅していったのだ。彼が帰還するや否や、代行者達は喝采した。彼の大いなる戦果と万能の力、そして人々が享受するであろう明るい未来に。
だが、稀代の代行者にとって、其の事実は暗く重い。彼らは紅く燃ゆる灼熱の怨嗟に縛られる事となる。


月明かり一つ見えない暗雲の空に覆われた大地に、ひっそりと存在する伽藍の中で、とある案件が採択された。稀代の代行者が集う〝織りし知識の夜〟と呼ばれる静謐なる議会で、である。其れは、古きを良しとする頑ななまでの厳格さを持ち、しかし、現実の問題を対処する上で柔和な性質を持つ。秘匿するのを善し、露見するのを悪し。稀代の代行者、それも代行者を指揮する権限を持つ、ごく一部の者のみにしか知られておらぬ議会である。
少し前までの機能は〝殻棄ての民〟への対抗策を練るという事であったのだが、其れは枝葉の一つでしかならない。本懐は〝脅威からの打破〟である。だが其処に秘匿の意味がある。
つまり、誰にとっての脅威なのか、という事である。
人々、若しくは代行者にとっての脅威なのか。其れとも権力者にとっての脅威なのか。
彼が死地に赴いた結果。其れは、人々、並びに一般の代行者にとっては喜ぶべき事なのだ。
しかし、議会に連なる稀代の代行者にとっては、新たなる脅威の出現でもあった。殻棄ての民の侵攻が和らいだ今となっては、目下最大の脅威は〝彼〟なのであった。
公開された表向きの議会である、〝曇りなき真実〟も近い将来求心力を失い、形骸化する事は想像に難くない。そして、新たなる指導者として彼が祭り上げられるのも想像に難くない。
そんなある夜、〝織りし知識の夜〟の議題に挙がったのが、〝新たなる脅威の打破〟だったのである。議会に連なる稀代の代行者は須らく賛同した。そして月明かりが眩しいある夜、実行に移される事となる。
其れが、〝天啓〟がこの世にもたらされる発端となる出来事。
幻想の月より生まれし流星に魂を射抜かれた人間だけが持つ、特殊な加護にまつわる話である。